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子供の頃から一番身近にあった電車です。実家の最寄り停留場は武蔵ケ辻で片町に行くのも市電に乗りました。
中学校の教室は公園下車庫の側線があり廃車となった木造単車50番台60番台が置かれていました。高校時代も市電通学でした。大きく左右に揺れゴーゴーと轟音を立てながら狭い金沢の道路を走っていました。
晩年は車に遠慮しながらの走行でしたが、私にとって最も生活に密着した電車でした。



金沢市電の最新鋭車モハ2302です。2301とともに投入されたときは、なんと静かな電車だろうというのが第一印象でした。金沢での活躍期間は短く豊橋鉄道へもらわれていきました。
昭和36年3月21日 新西金沢車庫
上の写真の2300型が金沢にやってきたときの写真です。当時はまだ車庫が新西金沢にありこの新型車両もこちらで整備されていました。
方向幕は試運転となっています。右のモハ59は60とともに事業車として使われており長いパイプ状の連結棒でトロッコを1両引っ張って公園下の車庫まで行ったり来たりしていました。
このような電車が母校小将町中学校の教室横にごろごろいました。車庫内の2300の右の2個の光はピット内の作業灯の電気です。
昭和41年
雪が降りしきるなか堤町から武蔵ケ辻交差点を左折し金沢駅に向かう2系統電車です。運転士は風邪をひいたのか外套姿でマスクをしています。昔はこのような格好をした鉄道員さんがよくいましたね。懐かしいです。
当然暖房もなかったんですよね。それにしても路面はざらめ状の雪で線路が見えませんね。
道を歩いていて電車にべちゃべちゃ雪を跳ねかけられた記憶もあります。
大樋口にもホームらしきものがありました。
昭和35年11月13日
全線の廃止に先駆けてなくなってしまった、鳴和ー東金沢駅前間です。途中大樋口という停留場が一つありました。
折から市内線の異端児モハ2051がやってきました。屋根にお椀を載せ骸骨のような顔でリベットがあり何とも武骨でしたが何かしら愛嬌がありました。

東金沢駅前には低いホームと倉庫のような窓なしの待合室がありました。電車にさわって喜んでいるのはTMS誌上で新諸国鉄道というNのレイアウトを発表した北市正弘君です。そう同級生なのです。

東金沢は市内線の終点でもありましたが、この地図で見るように駅前の電気冶金の工場まで専用線がありました。私の子供の頃はポールを付けた凸電が活躍しており国鉄構内まで出てきていました。

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