「大ピラミッド・クフ王建設」の定説に挑戦する


 大ピラミッドには、数々の疑問があります。建設者が第4王朝の2代目、クフ王(前2589年〜2566年在位)とされていますが、まずそこから最初の疑問を始めましょう。建設したのがクフ王だというのは、エジプト学では、『太陽が東から昇る』と同じ常識で、その根拠の1番目は次の通りです。
  
  @  「大ピラミッドの、密閉されていた空間である『重力軽減の間』を、1837年に英国軍人ヴァイスがダイナマイトで爆破して、こじ開けました。その一番上の屋根裏部屋に、クフ王のカルトーシュ(王名)が、発見されたのです。屋根石側にかかれていたのですが、その文字の一部は、下の礎石側の中へ入っているようです。このことから、石材の建設組み合わせ前に、文字が書かれたのは間違いなく、それでこのピラミッドがクフ王のものだとされる、決定的証拠であるとなりました。」
   
  これは凄い証拠発見で、この通りならば、クフ王建設に何の疑いも、差し挟むことはできません。ですが、よくよくこの事実を検証する中で、どうしても疑問になることがあります。
  
  A まず、この重力軽減の間の、クフ王名の落書きは、クフの文字の一部が礎石に入り込んでいるように見えますが、礎石側の接点の、角部分の石の一部を、取り除いてはいないので、本当に食い込んでいたのか、よく判明しません。吉村教授を始めザヒ・ハワス(
エジプト考古局長官)さんなども、それが証明されたと、おっしゃっていたようですが、ここを撮影したテレビ番組を、何度見直してみても、礎石側の、取り除き部分は確認できません。

  また、王名を書いたペンキは、塗りこめると多少、石の接着の中にも伝う可能性がありますね。毛管現象でしたか。それと、落書きに使われたペンキの、年代測定はされているのでしょうか。そんな情報はないんですよね。
  
  B また屋根石と礎石の組み合わせ方ですが、カルトウーシュの書かれた屋根石に平行して、礎石を斜面に切り下げてあるのでしょうか。屋根石はおよそ30度の角度ですが、礎石もそれに合わせて、30度に削ったのでしょうか。そうではなく、礎石とぶつかったところから、床石と平行なように、水平に合わさっているのではないでしょうか。何故かというと、この部屋の他の部分をみても、鋭角な切り口で合わせてある、ようには見えないのです。もし、礎石が水平に合わせてあるとすれば、このカルトーシュは最初の部分が、欠けていたことになります。(
この部分は下記図面参照
  
  C また、ほかの部屋にもカルトーシュがありますが、(
アルベルト・シリオッテイ「ピラミッド」P50に落書きの写本6枚あり)それは「(逆字の?)クヌム神クフ」だったり、「クヌム(?)サアブ(神)」だったりして、それがクフ王を示すのかどうか、統一性のない記帳です。王名に続いて書かれてあるヒエラチック(古王国時代なのにこんなに早く、草書体が使われたのでしょうか。)の文字には、解読のできない、文字の態をなさないものも見られます。専門家なら全部解読できるのでしょうか。なんだか、ヒエラチックを一夜漬けで覚えた人が、うろ覚えのまま書き付けた、といった感じがしませんか。
  
  D またこうした落書きは、『重力軽減の間』の、相当以前からOPENに開かれていた、最下段の間には、全くありません。その上の段は、1837年に初めて、イギリスの軍人ヴァイズが、ダイナマイトで爆破して、こじ開けて入った部屋です。そしてそこからが、こうした落書きが、書き込みされているのです。しかもクフ名は、何度かの爆破で上り詰めた、最後の天井の部屋にあります。功名をあせるヴァイズ自身が、書き込んだという説が、生まれる所以です。
    こうした「疑惑」がある場合、クフ名のペンキのC14測定や、落書きの詳細な図版、そのヒエラチックの解読、礎石を一部除去して文字が書かれている証拠を撮影するなど、もっと調査して欲しいと願うのですが、どうも積極的ではないようです。このままクフ王と言い切れば、「アトランティス説」や「宇宙人説」など、無責任な説を封じ込めることができる、という策謀でもあるのかな、といったら邪推でしょうか。
  
  E さらに不可解なのは、密室の内部の石には、これだけ王名を乱雑に記帳しながら、外装石がはがされたあとの、ピラミッド斜面にある数万個の石には、ただのひとつもペンキで王名が、書かれたものがないのは、とても不自然ではないですか。
  
  F 「霊魂ではないが、古代エジプト人がそれと同じく重要視し、その保持に注意を払ったものに、『レン』即ち人の名がある。名は単なる事物識別の符牒ではなく、実態であり、本質であった。それが消滅したら、その人間も存在できないというものだった。当然神の名を唱えることはタブーであり、首長の名を呼ぶことは、不敬であった。そこからまた、真の名を秘密にする習慣すら生まれた。」(
石上玄一郎「エジプトの死者の書」)
   労働者が、あるいは書記あたりが、王の名前を積み石に落書きして目印にする、そんな不敬な行為が許されたのでしょうか。もしそうなら、大ピラミッドの数万個ある積み石には、目印や王名などがいっぱい書かれていたのではないですか。それが一個も見当たらないとすれば、「書いてはいけない」ものであり、だから重力軽減の間のものも、「偽文」の可能性が強いのではないでしょうか。
  
  G さらにもうひとつ、女王の間から伸びている通気孔(?)の、延長65Mを、初めて撮影したテレビ画面では、その通路の上下左右どこにも、全くペンキでの落書きなどは、見当たりません。重力軽減の間だけにあるこの落書きが、いかに特異なことかが判ります。このことをもって、これがクフ王の建てたものだと結論するのは、いかがかと思います。
 
  H  クフ王建設の根拠第2は、「ヘロドトス」です。彼は、「大ピラミッドは50年在位した、ケオプス(クフ)により建てられた」と、「歴史」で記述(前440頃)しています。これも事実を記録したのならば、疑問が生まれる余地はありません。しかしヘロドトスの記述は、その時代の各国の風俗や歴史については、かなり正確な報告となっている一方で、「誤謬」もまた多いのです。噂や言い伝えを、さも本当のように記録したのが、混在しています。
   例えば「歴史」の中で、エジプト王の系譜については、ケオプスはランプシニトス王(第20王朝ラムセス3世?前1182年〜)の次に挙げられています。そのあと、第2ピラミッドを建てたケプレン、第3ピラミッドのミュケリノス、レンガピラミッドのアシュキスと続きます。そのアシュキスの時に、シャバカの来攻(前715)を記録しています。こうした王の年代設定は、考古学上の年代設定に比べて、大きく乖離しています。

  I そこから見て、ケオプスがピラミッド建造にかけた数字の、「10万人が3ヶ月交代で、道路に10年、ピラミッドに20年」という記述も疑わしいのです。建設された時から、2000年が経過しているこの時代の、「一般のエジプト人と、祭司による言い伝え」と自らが言うとおり、そこには後世のエジプト人の、憶測がかなり含まれているのではないでしょうか。
   なにしろこの2千年という時間は、日本では現代から弥生時代までの距離です。それだけの時間の量があると、碑文はいろいろあっても、きちんと記録された歴史書などが、一般の民衆に存在しなければ、正確に伝わることはないでしょう。
 
  J クフ王が建設したという根拠の第3は、エジプトの神官マネトーが、前300年頃に著した「エジプト史」にあります。その中で、「大ピラミッドの建築主はスフイスで、それはヘロドトスのいうケオプスだ」としています。このマネトーの著作が、王朝区分を始め、エジプト考古学の、基本テキストのようになっています。それでクフ王を、第4王朝2代目にあげて、63年の治世と記しています。しかしこのマネトーの記述の中で、問題は、そのあとのカフラー王(
第2ピラミッドとスフインクス建設)やメンカフラー王(第3ピラミッド建設)については、ピラミッドの建設はもとより、その業績についても、一言も記述していません。ヘロドトスを引き合いに出しながら、ヘロドトスのいう第2や第3ピラミッドの王の系譜を、その建設自体も含めて、全く無視しているのは、何故でしょうか。
  
  K もしマネトーが、「エジプト史」執筆に利用した古資料に、この王朝の記述があるならば、当然クフの前の初代スネフェル王の造った、3つの巨大ピラミッド(崩れ・屈折・赤)から始まって、大ピラミッドと並んでいる巨大な第2ピラミッドや、スフインクスについても、記述しなければおかしいのではないでしょうか。マネトーがギザとは至近距離にある、ヘリオポリスの神官長である以上、ピラミッドを何度もみていたことでしょう。当然それが、誰によって建てられたのかは、興味があったはずなのに、何故一言も記述しなかったのでしょうか。それとも記述したくない理由があったのでしょうか。
    これについては、マネトーの原本は失われていて、今あるのは後世の写本なので、カフラー以下の記述は、失われただけだ、とする見方もあるのかな、と思います。だが、クフまで記述しながら、その次以下は、「スフイスU王が66年、メンケレス王が63年、ラトイセス王が25年、ビケリス王が22年・・・」と続いています。ここは後世の誰かが、想像で記入したというのでしょうか。

  L クフ王建設の根拠第4は、「大ピラミッドを取り囲むように、衛星ピラミッドと、クフの母や妃の3つのピラミッド、息子や近親者・高官たちのマスタバ墳、クフ王の太陽の船が存在する。」ということです。ですが、これは大ピラミッドをクフが建てた、という証拠にはならず、あくまでもあとづけの、状況証拠ではないでしょうか。
   【ちなみにこの太陽の船ですが、34mの舟坑に納められていて、組み立てると全長40m、大回廊の長さくらいになりました。そこで、もう少し大き目の舟坑を掘れば、ばらばらにしなくとも、そのまま納めておけたのに、と思います。もうあと8mぐらい、当時の技術ではできなかったのでしょうか。なにせ再組み立てに10年近くかかったらしく、それも1224個の断片にまで、こなごなに分解したのはなぜでしょうか。埋葬された王が、霊界で早速この舟で、ラー神と天空を渡ろうとしても、こんなにバラバラでは、役に立たないのではないでしょうか。】
 
  M  大ピラミッドの葬祭神殿・河岸神殿・参道に、クフ王建設とみられる痕跡があります。これはクフ王が関わった、確かな証拠になります。しかしそれは、大ピラミッドをクフ王が建てた、証拠にはなりません。しかも、大ピラミッドにはクフのミイラは勿論、遺物や残余の文字装飾などが、全くないばかりか、この中には最初から誰も、葬られた形跡がありません。残されている石棺も、木棺や金棺などを梱包して入れるには、ちょっと小さ過ぎるようです。
  
 

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  絵がなかなかこのページに移動しないので、 文章で説明します。
  重力軽減の間にある「クフ王名」が問題です。この名前が書かれている壁石ですが、王名は、下の「礎石=支え石」によっ  て途中から遮られています。それが、この王名はあとから書き込まれたのではなく、建設前に書かれたことになる、「証拠  」 とされています。
   さて、この王名の書かれた方の壁石つまり「屋根石」は、資料によれば、斜めに「礎石=支え石」を45度に切り下げなが  ら、その上に差し渡されているとのことです。しかしこの方法だと、支え石を斜め45度に切って、その上に屋根石を載せる  わけですが、そうすると、屋根石の下部へ押されて来る重量を、もう一度支えなおす石が必要になります。また、それでは  構造上大変不安定になるのではないでしょうか。
   それよりも、支え石のほうは上部が平らなまま、屋根石の方を45度に切って、双方をぴたりと合わせて置いた方が、より  安定し、なおかつ作業も簡単ではないでしょうか。もし石同士が、このような組み合わせ構造だと、問題の王名は、最初か  ら切れていることになります。従って、王名を途中で切断するようなことを、神官たちがするはずは無いのであって、後者   の組み合わせでは、王名は書かれてはいなかった、ということになります。
   王名が書かれているとすれば、前者の組み合わせ方法しかありえないことになり、その組み合わせは大変不安定で、な  おかつ手間のかかる方法であり、果たしてこうした石の利用の仕方をしたのでしょうか。

  この重力軽減の間には、一般旅行者は入れないので、確かめられません。テレビ放映されたこの部分を、点検してもどう も後者のような構造に見えます。力学的には、そのような構造のほうが、正しいように思えるのです。どう思われますか。