金沢の市内電車は物心付いた時から生活の一部みたいな感じでした。
金沢の細い道をガラガラゴトゴトチンチーンと元気に走っていました。
晩年は邪魔者扱いにされ肩身の狭い思いをしていました、そして昭和42年遂に廃止されてしまいました。
今から思うと本当に残念です、金沢には路面電車が似合うのに。

系統板です

  @金沢駅-小立野 A金沢駅-寺町 B野町駅-小立野
     C野町駅-鳴和 D東金沢駅-寺町 E金沢駅-兼六園下


香林坊の出べそ

香林坊交差点の市電信号扱い所です。僕たち子供の頃から出べそと言っていました。
夏は暑かったでしょうね。何かの本に犬が中を覗き込んでいる写真が載っていました。
クーラーなんてない時代ですから扇風機と氷柱で涼をとっていたらしいです。
 交差点の信号が故障したときにはおまわりさんがこの上で笛を吹きながら手信号で交通整理していました。
 いつかの大雪の時の選挙ではこの上の雪山に候補者のポスターが林立していました。

スバルサンバーの後ろは木造3階建ての加登長のうどん屋さんです。

 


雪の武蔵ヶ辻交差点

ここが我が家の最寄の電停でした。

冬は雪がシャーベット状になって歩行者は往生します。
ベチャベチャの雪を跳ね上げながら金澤駅前を目指します。


大樋口

鳴和から東金沢駅前までが専用線になっていました。
手前が一応ホームのつもりだそうです。

寺町行がやって来ました。
1形式1両のモハ2051です。屋根にはお椀型のベンチレータが載っていました。
無骨なリベットが出ているこの車両が好きでした。

この系統では青電車も多く使われていました。
前後左右に車体を揺らしながら走ってきます。


終点東金沢駅前に到着です

数少ない専用線の終点です。簡単なホームと倉庫のような待合室がありました。
このようなホームらしいホーム?はここと野町だけだったと思います。
そして待合室はここだけにあったような。
 左の電柱に巻かれた赤地に白字の駅名表示板は金沢市電独特なものでした。
 電車を待つお客さんもそこそこにいますね

昭和35年11月13日 雨


 


東金沢駅前停留所

昭和35年11月13日

この専用線区間は全線廃止に先駆けて廃止されてしまいました。
この5番系統には、このモハ2051がよく使われていました。
1形式1両で屋根にはお椀形ベンチレータを載せ、車体はリベットでゴツゴツでした。
でもこの電車好きだったなあ。

 

 東金沢駅前には低いホームと倉庫のような窓なしの待合室がありました
電車に触っている中学生は親友のK君です
TMS誌上で時々Nゲージレイアウトを発表しています

今でも毎年お正月には幼馴染と一緒に飲んでいます。

終点の枕木で作った簡易車止めです


東金沢駅周辺の地図

 東金沢には、この地図でも見えるように日本電気冶金の工場専用線がありました。
 私の子供の頃はポールを付けた凸形電機が活躍しており国鉄東金沢駅構内まで貨車を引っ張って出入りしていました。その凸形電機の写真探しています。

 


新旧顔合わせ

昭和36年3月21日 新西金沢車庫

 最新鋭の2300型が金沢にやってきたときの写真です。ピッカピカで室内灯は蛍光灯です。
新西金沢にあった石川線の検車庫でデビューに向け整備されていました。
 方向幕は試運転となっています。この電車はこれまでの電車とは違い走行音が静かでビックリしました。
右のモハ59は同型のモハ60とともに事業車として使われており長いパイプ状の連結棒でトロッコを1両引っ張って
野町の連絡線から市内線に入り公園下の車庫まで行ったり来たりしていました。
 当時通っていた小将町中学校の教室横には運用から離れた木造単車がごろごろいました。


廃線となり第二の人生へ向けて石川線の野々市駅側線に集結した2200型電車群
このほか加賀一の宮駅側線にも留置されていました。



青電車

昭和48年に開催された日本海博に展示されました。
なぜか車番が消されています。救助網も撤去されています。
現役時代こんな正面窓がHゴムの青電車いたかなあ。
詳しい方教えてください。
ぶら下がっているのは若き日の管理人です。

小立野児童公園に保存された モハ302

荒れ果てています。これが上の写真の電車でしょうか。


復活!

 豊橋鉄道で金澤市内線の最新型モハ2302が復活しました。
 絶対に金澤に里帰りさせたいと願っていましたが、結局は鉄道研究所で蓄電池車に改造されてしまいました。(津田幸治先輩撮影)


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