北陸鉄道浅野川線は夏になると粟ヶ崎海岸への海水浴でよく利用しました。
終点の粟ヶ崎海岸駅は夏場だけの臨時駅で駅舎、ホームとも粗末な造りでした。
駅からは熱い砂浜をアチチアチチと言いながら波打際まで走りました。
平成8年8月6日 内灘
お役ご免まで後4ヶ月、ホームのかさ上げによりステップも改造されました。
モハ3563は温泉電軌出身で最古参、ピカピカにお化粧直しをしました。
モハ3201は片方にだけ貫通幌があります。
加南線、石川線を経て昭和43年から浅野川線で活躍していました。独特の顔をしています。
クハ1203+モハ3551
その昔、手前草むらの場所が貸しボート乗り場でした。向かい側にもありました。
休日ともなると若いカップルやふな釣りの人で賑わっていました。
鉄橋の真下でボートから見上げると何か油でも落ちてきそうでした。
ボートは安全地帯だと言ってタバコをプカプカやっている高校生もいました。ボクではありません。
クハ1203は元温泉電軌で3563と共に頑張っていましたが一足先に消えてしまいました。
平成6年1月8日 内灘 モハ3563
ご老体には酷なような大きいスノーブロウを付けて待機していますが、その活躍ぶりは見たことがありません。
浅野川線にはこれ以外に除雪装備をした車両はいませんでした。
平成8年9月28日 北鉄金沢駅到着
旧型車の引退を記念して、モハ3501+3301がこのような塗装に変更されました。
北陸鉄道にしては珍しいことで私もこれ以外には記憶にありません。
現在はこの部分は地下化されて様相も一変しました。
いかにも北鉄電車といった感じで好きだったんだけど
以前は交換設備がありました。左の空き地が線路の跡です。
現在は電車のいる左側にホームが新設され移転しました。
線路が急カーブしてしていたのでホームとの隙間がけっこうありました。
新型車が陸送され七ツ屋駅に臨時に作った搬入線路に乗せられました。
旧型車が淘汰される日が近づいてきました。新型車も赤と銀が似合いますね。
しかし、新型車といってもそんなにも新しくはないのですね。
この2両はどちらも昭和30年代の製造なのです。
七ツ屋駅隣接地にレール新たにを敷いて新型車の搬入をしているところです。
モハ3011は新型車の入換え作業をしていました。
昭和44年3月
海水浴シーズンだけここまで電車が来ました。
昭和45年に金沢港の工事が始まると同時に粟崎海水浴場が閉鎖されこの駅も廃止されました。
北鉄金沢駅には材木会社と冷蔵会社の引込み線があり、国鉄との貨車の受渡しが行われておりました。
ここでは浅野川電気鉄道生え抜きの、モハ573と572が最後の踏ん張りで頑張っていました。
昭和36年4月16日
昭和36年12月
何にぶつけたのかボコボコに凹んでいます、後ろに4輪のサハ221が隠れています
昭和38年元旦
元旦にカメラを持って来たのですね、子供だから暇だったんでしょう。
国鉄富山港線からやってきた元伊那電のモハ3101です。
何となく風格が感じられます。
浅電では一番の大型車で夏場には海水浴客を満杯にして同型のモハ3102との2連で足元の悪い海岸駅付近ではゆっさゆっさと左右に揺れながらゆっくり走っていました。
右の建物は金沢鉄道病院です。ここで小学1年生のとき扁桃腺の手術を受けました。
当時はまだ木造でしたが。
この時はまだポールを付けています。上の写真の半年前ですのでパンタ化直前だったんですね。
後ろにくっついているのは4輪単車のサハ211です。同型のサハ221と2両いました。
写真左は北陸本線との立体交差地点です。(昭和37年6月)
当時浅野川線の検車庫は七ツ屋にありました。
車庫から頭半分出しているのはモハ3102、向こう側は遠州鉄道からやってきたクハ1601と当線の花形モハ3551です。
以前私の職場に浅電の元運転士がいてその人のお話では、
昔入庫の際油断して、この車庫の裏を突き破って小川に電車を突っ込んだ人がいたそうです。
車庫の正面には大きな丸い浅野川電鉄時代の社紋が誇らしげに見えます。
元温泉電軌 モハ3561 昭和37年改造
浅電の最新鋭モハ3551と古豪モハ851の2連が内灘に向かいます。
モハ851は扉を開けたままポールを下げてサハ代用です。
この当時浅野川線には旧伊那電で富山港線から来たW屋根の電車が4両活躍していました。
この851と852は木造でした。(昭和37年6月)
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