10章 もうひとりのモーセの物語とは?
さらに別の資料から、もう一人のモーセの物語を検討してみよう。
紀元前3世紀の神官で、「エジプト誌」を記述したマネトーの残した断片によれば、彼は第18王朝の9代目の王アケンケレス(アクエンアテン王と推測される)の時代に、モーゼがユダヤ人を率いてエジプトを出た、と記している。さらに別の断片によれば、その2代前の王アメノフィス(アメンヘテプ3世と推定される)のときに、オサルセフというヘリオポリスの神官が、ユダヤ人を率いて王を襲い、そのため王はエチオピアへ逃げて、13年後にやっとエジプトへ戻って、オサルセフの勢力を国外へ放逐した、という物語を書き込んでいる。このマネトーの記述された時代には、もうすでにユダヤ教徒はエジプトのアレクサンドリアなどに流入し、聖書も知識階級には知られたことだった。神官のマネトーもエジプト史を記述するにあたり、出エジプトをしたモーセを史実のどこかに含めたいという誘惑にかられたことだろう。そのためエジプト誌に記述されたモーセについての簡単な紹介は、彼の想定による可能性もある。一方オサルセフの物語は独自のシチエーションを持っていることから、古代からの伝文による可能性がある。
● オサルセフの物語(要約)
アメノフィス王(アメンヘテプ3世)は神々と直に面会することを願った。そこで同名のパピスの子アメノフィス(アメンヘテプに仕えた高名な建築家ハプの子アメンヘテプと比定されている)という、未来予知ができる賢者に相談した。彼は、巷に流行している「ハンセン病」患者と、「汚染された人々」を王国から追放すれば、可能だと答えた。こうして8万人の人々が集められて、ナイル川の東岸にある石切り場に送られ、隔離状態で働かされた。その後賢者は、このことが神の怒りを招くのではないかと恐れ、またこの人々が反逆して王を追放し、13年間エジプトを支配するだろうと予言して、自らの命を絶った。
そこで王は彼らに対しての虐待を止めようと決めた。虐げられた人々は、それでは廃墟となっていたアヴァリス(その昔ヒクソスが住んだ町で、聖書に出てくるピ=ラメセと同一とされる。)を居住地として欲しいと申し出た。その地に住み着いた人々は、ヘリオポリス神官のオサルセフを指導者と仰ぎ、忠誠を誓った。そこで彼は、エジプトの神々を捨てさせて、そうした神々の動物を殺させ、エジプトの習慣に反する数々の掟を定め、他の国民とは一切行き来してはならない、と決めた。その上で、石切り場の労働を止めて、王に対して武装するようにさせた。
カナンなどに居たヒクソスの末裔たちにも呼びかけて、その軍勢(20万)を呼び寄せた。そのため王はエチオピアに逃げ出した。ヒクソスと「汚れたエジプト人」はこうしてエジプトを征服したと見るや、街や村に火を放ち、神殿を荒らし、神々の像を破壊して、神官たちに神聖な動物を殺させ、彼らを追放した。そのリーダーはオサルセフだが、この民の中では、モーセと呼ばれた。この支配は13年続いた。エチオピアに逃げていたアメノフィスは息子セトスと共にエジプトに戻り、このヒクソスと「汚れたエジプト人」の軍を破り、相当数を殺害し、シリア国境まで追い立てた。・・以上がマネトーの伝える物語である。 ●
さて、ここに出てくる「汚れた、あるいは汚染されたエジプト人」というものはなんだろうか。
それには二つの説があり、ひとつは、ハンセン病や伝染病の疥癬などに犯された人々を指し、そうした病気を悪疫として忌避し、汚れていると呼んだのだろうとする見方である。もうひとつは、アテン教の信仰に染まった人々を指している。
ギリシアの歴史家ヘカタイオスは、紀元前320年に「エジプト史」で、出エジプトを取り上げこう書いている。「古代エジプトで悪疫が流行し、平民の人々はこれを神の業であるとした。というのは、彼らに混じって、ありとあらゆる異国の人がこの国に住み、それぞれが異なった宗教儀式を行い、生贄を捧げたので、エジプト古来の神々への崇拝がおろそかになっていたのである。」
次にオサルセフについて、考えてみたい。エジプトの宗教の中心のひとつで、太陽神を祭るヘリオポリスの神官ともあろうものが、虐待された民衆に祭られて、その指導者となり、王を追い立てて反逆することになるということなのだが、いったいどういうことがあって、王に反逆することになったのか。その理由とは何だろうか。
王の一族に近い立場で、神官職を遂行していたオサルセフが、ある日突然に「汚れた民衆」を集めてリーダーとなって、王の支配に刃向かい、エジプトの神殿などを襲って神々を殺害する行為に出るというのは、「汚れた民衆」から推戴されたからという程度の理由ではなかろう。余程の衝撃的な事件の渦中に落とされたからではないだろうか。つまりそれは、オサルセフ自身が汚れたエジプト人の一人になってしまったということで、間違いないのだ。そしてその汚れとは、異端の宗教の一員に加わったということではない。なぜならこの異端の宗教は、既存の神々や神殿を破壊する苛烈な側面は認められるが、反面では「愛と慈悲の宗教」としての側面もあった。それまでのエジプト国外での植民地支配から手を引き、国内でも王権による強権支配を止めて、ひたすら夕陽の太陽であるアテンの恵みを崇拝することに没入することを求めた宗教なのである。従ってそういう宗教からは、王を放逐したり、その軍勢に武器を持って立ち上がるような、反逆的な方向は出てくるとは考えられない。
そうするとオサルセフが「汚れた一員」になったということは、宗教に洗脳された一員ということよりも、ハンセン病または疥癬患者そのものとなったのであって、そのために神官職を追われ、虐待される人々の中に落とされたのだろう。そうした逆境を経れば、王やエジプト国家に対する怒りも尋常ではないものになるのではないか。
そこでエジプトの神々を撃ち殺し、エジプト人との接触を厳しく制限して、エジプトの中に独立国家を作ろうとしたのだろう。そういう中から、同じ「汚れた人々」の気持ちをひとつに結集して、周囲の多神教を受け入れているエジプト人達から隔絶した精神を確立するために、アテン神という唯一神を唱え、そこに救済を求めるという宗教発生の素地が生まれたというのは考えられる。
現に聖書には、神の山に登ったモーセに、神がモーセの手をハンセン病患者のものにして見せ、それをまた直す奇跡を実演している場面があるが、これはモーセがハンセン病患者そのものであったことを反映しているのではないか。
またもうひとつの説によれば、オサルセフが指導した「汚れたエジプト人」というのは、エジプト史におけるアクエンアテン王のテル=エル=アマルナ(新都)での統治に参加したおよそ8万人と、規模も時期も同一に近いので、この人々は、アケトアテンに集まったアテン神の崇拝者たちではないか、その新都建設が「石切場」と表現されているのではないか、という説である。そこで「汚れた人」というのは、この異端の宗教に感化された人々を後世の人々が指して言った言葉ではなかろうか、という見方である。
確かにアクエンアテン王もオサルセフと同じように、アテン神以外のエジプトの神々を総て遺棄させて、そうした神々の像を祭ることを厳禁しているのである。さらにアマルナの地域は無人に近いところであって、そこに民を集め、新王宮都市を築いたのだから、オサルセフが支配した独立王国とよく似た状況となっている。さらにエルサレムの総督がヘブル人のほうが可愛いのか、と詰問するのは、エジプト人による支配ではなく、ヘブル人が中心に位置する支配構造になっているためなので、それはカナン周辺のヒクソスを呼び寄せたオサルセフの立場と、よく似た構造になっているのが見える。
こうしたオサルセフの物語とアクエンアテンの物語を統合して推理すると、モーセはアクエンアテン王そのものであり、アメンヘテプ3世をエチオピアへ追い出し、13年後には、父王とアクエンアテンの兄弟である王(ツタンカーメン)によって今度はアクエンアテン王が新都から追い出され、民の一団と共にエジプトからも逃亡して、カナンへ向かったということになる。
しかしこの仮説には次の弱点がある。つまりエジプト史によれば実際には、アメンヘテプ3世はアクエンアテン王と共同統治していた時期があり、父王もまたアケトアテンに住んでいたことがあるようだ。しかもツタンカーメンはアクエンアテン王の娘と結婚しているのであり、そうしたエジプト史からすると、オサルセフとアクエンアテンが同一ということには成り難い。しかも、「汚れた人」達が立て籠もったという割り当ての地はアヴァリスであり、そこからテルエルアマルナまでは380km、この距離では簡単に話しが繋がらない。しかも、アメンヘテプがエチオピアへ逃亡した記録はなく、またそこまで逃げなくとも、テーベの都などがあり、その必要はなかったはずだ。また、クシュの地(エチオピアもしくはスーダン)との関係からいえば、ツタンカーメン王墓から出土した木製飾り箱の図柄に、ツタンカーメン王がクシュと戦い、相手兵士を虐殺して勝利を得る絵が書かれていることから見て、ツタンカーメンもしくはその当時の王とクシュとは明らかに戦争状態にある。アメンヘテプ3世だろうと、ツタンカーメンだろうと、クシュが逃亡を受け入れて、これに協力してエジプト再制圧まで支援するようなことはなかったのではないか。
それではオサルセフとアクエンアテンとが別人とすれば、それでは二人の関係はあるのだろうか、それとも全く関係のないものだろうか。マネトーがこのオサルセフを登場させる時代をもう一度確認すると、それはメムノンの像で有名なアメノフィスのときとしているが、これはエジプト史ではメムノン像で有名なのはアメンヘテプ3世であり、これは間違いがないところだ。それでエジプト史ではアメンヘテプ3世の次はアクエンアテン王となるのだが、マネトーは次をオルス王として、その治世を36年とした上で、その次の王をアケンケレス(アクエンアテン)としている。そのアケンケレスは12年の統治であり、それがアクエンアテン王と比定されている。つまり実際にはいないオルス王を親子の間に挿入しているのだが、これはツタンカーメンの後を襲うホルエムヘブ(29年統治、アイの統治間も実権を持っていたとすれば、33年)が、アクエンアテン憎さに伝承文書を書き換えたとされているようだ。しかしもしこのマネトーの記述の方が正しいとすれば、どういうことになるのか。
仮設@『アメンヘテプ3世の統治末期に、アテン神を信奉する王子たちの勢力が増大したことから、アメン神官団と軍人たちがホルエムヘブを先頭にクーデターを起こし、王権を奪取するとともに、王子たちを追放した。そこでアクエンアテン王子は国外に逃れ、(例えば)ミディアンに潜伏する。ホルエムヘブは強権でエジプトを支配し、ハンセン病患者やアテン神信仰に携わった者たちを石切り場へ送る。そして35年後に、アクエンアテンはカナンのヒクソスたちを連れて、エジプトへ侵攻し、ホルエムヘブを撃ち破り、王国を支配する。そしてアマルナの地に新都を構え、アテン神を信奉する人たちを再び集めて、エジプト人に一神教の教えを苛烈に強制した。敗れたホルエムヘブ王たちはエチオピアへ逃れる。やがて12年後に、彼らはエチオピアの軍勢を借りてエジプトへ戻り、アマルナの勢力を撃ち破り、国外へ追放し、用意されていた墓地を粉々にした。アクエンアテンは再び祖国を追われて、支持者たちを連れて、ミディアンに向かったのだが、その逃亡の道中にあった出来事を出エジプトとして伝承した。』、ということになるのだろうか。
こうした仮定の物語は、筋書きとしては面白いだろうが、歴史的な裏づけがない。
さらに言えば聖書には、出エジプトのときのファラオについての固有名詞が全くない。こうした出エジプトが多少とも歴史的な事実に基づくとすれば、そのときの「立ち去ることを拒み、逆にレンガのわらを減らして造らせるという苛烈で、頑迷な王、そのファラオの名前が出てくるのが自然なのだが、それがないというのは、これは出エジプト自体が架空の物語であることを示しているか、またはファラオの名前を出せない事情があった、ということになる。
架空の物語であって、紀元前6〜7世紀あたりに創作されたものだとすれば、出エジプト記を検証すること自体が無意味となる。だがその場合、後世の記録の中で、それらの話しが総てファンタジーだということが、どこかに出てくるだろうが、聖書やその外典・偽典の中でもそうした言葉が出てこない。むしろ、モーセの5書は一字一句とも変えてはいけない、といった姿勢が貫かれていて、それを総て歴史的事実と見なしているのである。また、架空の物語だとすれば、イスラエルに対抗するエジプト側の資料、つまりマネトーの史料などには、モーセなどというのは嘘八百の話ででっち上げだ、というようなことが書かれるだろう。しかし現実は、マネトーの史料でもモーセのモデルと思われるオサルセフについて、これだけ歴史的事実として書き残しているというのは、やはり何らかの歴史的な事件が起きたことは間違いないのだろう。
するとこれは、歴史的な事件に間違いないのだが、王の名前を書き出せないという事情となると、ひとつはファラオが不在の時期だったのか、内戦などで混乱している時期だったのか、余程幼少のファラオだったのか、あるいは名前を出すには憚れる王だったのか、ということになる。
ただこの仮定の仮説@物語だと、出エジプトのときの交渉相手の王はいないことになる。なぜなら、そのときのファラオはアクエンアテンであり、モーセ自身だったことになる。ホルエムヘブとの戦いに敗れて、エジプトを脱出するのだが、そのときのモーセは、まるで王のように振る舞い、強権でイスラエルの民を支配している。だから、エジプトでも王だった可能性はある。ただし、アテン神を奉じる優美な絵画に書かれているあのアクエンアテン王が、自分の子女をエジプトの次の王室に残したまま、一部の民衆を連れて、あてのない砂漠への、逃避行に出掛けるだろうか。また、そうしたことがあれば、次の王ツタンカーメンの墓室にもそれらは反映されるのではなかろうか。
(もっとも1922年11月にツタンカーメンの墓が開封されたときに、ハワード・カーターは墓室にあった「何枚かのパピルス」を秘密裏に持ち出したとする説があり、そこにはアマルナ時代の混乱の記録が書かれていた可能性があるのではないか、といわれる。その訳は、後年カーターがエジプトの領事館員の対応に激怒したときに叫んだ言葉にある。「完全な満足と正義を得られない限り、王墓で発見した、エジプトからユダヤ人が脱出した際の、エジプト政府側の真相を述べた記録を世界中に公表する。」「ツタンカーメンと出エジプトの謎」アンドルー・コリンズ他、原書房)
ただもう一つの可能性として、仮説A、アクエンアテン王がアテン信仰を苛烈に推し進めたことから、民衆や軍人やアメン神官団の反逆を招き、そうした者たちが一斉蜂起する中で王権は倒され王は殺害されて、エジプト全体が大混乱になってしまう。そのため王に従属していたアテン神官団とその指導者たちは逃れるのだが、彼らはアヴァリスあるいはゴシェンに潜伏して時期を待とうとするだろう。やがてツタンカーメン王が王位に上る頃には多少混乱が収まりつつあるのだが、宮廷では実権を争奪する激しい戦いが起きていて、宰相のアイと軍の司令官ホルエムヘブさらにはアメン神官団との間で三つ巴の争いがあり、王にはほとんど実権がなかった。そんな中で、ホルエムヘブによるアテン信者狩りが激しさを増してきたことから、オサルセフ(=ラモーセ=モーセ)を中心とする数千〜数万の民衆は、武器を手に、周辺の民衆に対する掠奪をしながら、エジプト国境へ逃避をしようとした。
こうした場合、彼らは直接にはツタンカーメン王と折衝をしていたわけではないのだが、(というのはこのときのツタンカーメンはまだ少年であり、もし折衝があったとすれば、それは司令官のホルエムヘブだろう。)エジプトを出るにあたり数々の神の奇跡があったとする物語を創作し、そこへ頑迷な王が出エジプトを邪魔立てしようとしたことを記録することで、出エジプトの本当の真実を隠したのではないだろうか。そのため現実には存在しない王として、名前のないパロを登場させたのだろう。
ただこの出エジプトに至る時間は、必ずしも数ヶ月といったことではなく、アクエンアテン王の死去(前1334年)からツタンカーメン王の統治の最後(前1325年)頃にかけての、およそ8〜9年をかけた中で展開されたことだろう。そしてこの潜伏中に、アテン神官団の安全を確保するために、ハンセン病の蔓延を演出したのではなかろうか。そのことで、集落への立ち入りもなくなるだろう。また他の住民との接触を禁じて、アテン神への奉仕を秘密裏に維持しようとすることができる。しかしホルエムヘブの軍勢による圧迫が日増しに強まるので、彼らはとうとう一夜にしてエジプトを出ることを決断し、実行したのではなかろうか。