モーセの出生にまつわる秘密と、その前半生に隠されている謎。
ヤコブの第3子のレビの子孫に、アムラムというものがいた。彼はエジプト王がカナンへ出陣した折に、レビの遺骨を持ってヘブロン山中に逃れ、その後数年してエジプトに戻り、レビの娘と正式の結婚ではなしに、子を設けた。(ここまではヨベル書46)
その子の処置に困った母親のヨケベデは、籠を編んでナイル川の岸の葦の中に隠しておいた。そこへファラオの娘が偶然やってきて、その籠の中の子供を見つけ、その子を引き取りたいと言った。そこで母親の乳離れが済むと、その子はファラオの娘に差し出されて、「モーセ」と名付けられた。成人したモーセは、同胞が苦役に苦しめられているところで、エジプト人の監督を撃ち殺し、罪の発覚を恐れてシナイの東にあるミデアンの地まで逃れた。そこで祭司の娘と結婚し、男子を設けた。
エジプト王が、イスラエルの新しく誕生する男子をすべて、皆殺しにせよ、と命じたというのが第1章にでてくる。しかしこの記述には疑問がある。まず、皆殺しにしなければならない理由が乏しい。「十戒」の映画では、その中に未来の救世主が生まれているからだ、というのがあったが、それはキリスト教の影響で、事実ではない。理由の一端として、イスラエル民族の勢力が大きくなり過ぎたので、「間引き」の意味で男子を殺させた、ということが書かれている。しかし、このイスラエル人たちは苦役の労働力として酷使されている、ということからすると、その将来の労働力をわざわざ削ぐようなことをするだろうか。しかも新生児を皆殺しにすれば、イスラエル人の大きな反撃が起きるのは目に見えている。彼らは決して奴隷ではなく、あくまでもエジプトのゴシェン地区に定住する移民なのだ。経済力はなく、下層階級ばかりなのだろうが、それでもエジプト人とは違った宗教と、民族意識を持っているのだ。その新生児を皆殺しにすれば、どんな反発が起きるか計り知れない。
すると、どうして皆殺しの話しが出てくるのだろうか。それは、新生児を捨てようとした親の方の事情に、特別の理由があるのだ。捨てないと殺されてしまう、という物語を創って、新生児の遺棄を正当化しようとしたのだ。本当のところ、その子は正式な結婚によって生まれたものではなく、隠さなければならない子供だったのだ。つまり両親の許しのない結婚なのだ。そこで捨てざるを得なかったのだが、それを正当化するためにこうした皆殺しの話しが後世書き加えられた、ということではないか。
「モーセの生涯」(トーマス・レーメル)によると、「『レビの家のひとりの人が行ってレビの娘をめとった。女はみごもって、男の子を産んだが、その麗しいのを見て、3月の間隠していた。しかしもう隠し切れなくなったので、パピルスで編んだ籠をつくり・・』という表現は、正式な結婚ではなく、婚姻関係にない男女が性的関係をもったこと、さらにいえば、男が力ずくで女を犯したことを意味している。」・・・そういう出生ならば、アブラハムからの堂々とした系譜を最初に掲げることはできず、民族の代表者としての正当性(系譜)を主張できないのだ。のちに姉のミリアムや兄のアロンが、モーセと意見が食い違ったときに、かならずしも神の代弁者としてのモーセを認めない態度をとるのも、モーセに民族の指導者としての正当性を見ていないことにある。
また重大な問題だが、もしモーセがアムラムとヨケベデの第3子で、アロンの弟として生まれたのならば、どうして隠さなければならないのか。しかも割礼も受けさせてやらずに、捨てなければならないのか。それはすなわち、モーセはアロンの弟ではないことを、意味している。アロンの弟ならば、隠す必要は全くない。また、仮に母親の不倫により出来たのであれば、父親や家族に知られずに処分するのであって、3ヶ月も隠しておきはしない。するとこの記述が意味しているのは、モーセは両親の不明なヘブライ人の捨て子だ、ということか、または誰の子か知れないがとにかく出生をヘブライ人にしておきたいのだ、ということである。
次にこのモーセという名前だが、聖書では「水の中から引き出した」ということからヘブライ語のmoscheから付けられたとされているが、エジプトの王女がヘブライ語で名前をつけるはずがない。また、j・h・ブレステッドの「エジプトの歴史」によれば、「エジプト語のモーセmoseはただ単に『子供』の意に過ぎない。アメン・モーセ、プター・モーセというように、アメンの子供、プターの子供という意味である。さらにトート・モーセはトトメスとなり、ラー・モーセはラメセスとなるのである。」、そうするとこのモーセは、イスラエルのレビ族の生まれではなく、もともとエジプト人そのものであった可能性もあるのではないか。そのエジプト人が、何かの事情でイスラエル人と行動を共にして、やがてイスラエル人の指導者となり、独裁者となり、シナイ半島を連れまわした、ということではないか。
それを窺わせるように、モーセはイスラエル人としての掟である、生まれて8日目の割礼を受けていないことが明らかにされている。また、エジプトへ戻ってからは、話べたなので兄弟のアロンにしゃべらせる、ということが書かれていることから、モーセはヘブライ語を話すことができない?ようだ。そして逃亡先のミデアンでは、ためらうことなく「ひとりのエジプト人が、私たちを助けてくれた。」と書かれているのだ。本来なら「ヘブル人が、(または)イスラエルのアムラムの家のものが助けてくれた」と書き込むだろう。
さて、この物語の最初にある疑問のひとつは、このモーセが犯した殺人事件にある。よくよくこの事件を検証してみると、どうにも腑に落ちないところがある。
まず、ヘブル人を虐待しているエジプト人がいたので、エジプトの王子が、周りに誰もいないのを確認して、そのエジプト人を撃ち殺した。翌日、またヘブル人同士が争っていたので、仲介をしようとすると、私をエジプト人を殺したように、撃ち殺すのか、と言い返された。それがエジプト王の耳に入って、王子は王に殺されそうになったので、逃亡する。
モーセはエジプトの王家の一員ではないのだろうか。一員ならば、虐待するエジプト人を成敗する程度は、たいした罪にもならないのではないか。むしろ正義を行う王子として、逆にほめそやされても良いのではなかろうか。だが、この事件を取り上げて、王がモーセを殺そうとするのだ。ただ、このモーセがヘブル人ならば、エジプト人殺しの罪で追われるのは当然になる。では、モーセはヘブル人として行動していたのだろうか。いやそうではない。「ある日のこと、同胞のところに出て行って、その激しい労役を見た。」とある。モーセは労役に従事しているのではなく、あくまでも傍観者として見学をしている。エジプト人だから、それもエジプトの王子か、王家の一員だから、それが当然ではある。その見学中に、過酷な虐待をしている役人を、モーセは殺してしまった。もし王が問い詰めても、充分申し開きができることなのだ。だが、結果的にモーセは故郷を追われ、エジプトの手の届かないミデアンの荒地まで逃げざるを得なかった。なぜ、逃げざるを得ないのか。
モーセはエジプトの王家に連なるものか、王家ではなくとも、少なくともエジプト人には違いない。その彼がエジプトを追われ、ミデアンまで逃亡する理由とは、これは殺人事件の容疑者としてではなく、王家の中での権力闘争か、あるいはエジプトで起きた内戦に近い戦乱を逃れたためではないのか。しかし、その混乱の内容を詳しく書き記すことは、モーセの出生を明らかにすることになり、こののちイスラエル人の最高権力者として、民を指導してゆくには、都合が悪い事実であったのだろう。モーセを追ったエジプトのパロ(ファラオ)についても、あるいはその後の王の名前についても、ひとりも書き記さないことも、同じ理由にあるのではないか。つまり王名を明らかにすると、当然モーセの身元も判明してしまう。エジプトは歴史の国で、ファラオの名前はすべて石に刻まれている。王子たちもおよそはっきりしているのである。そのことは、エジプトに住むヘブライ人もよく知っていることだ。エジプト人のモーセが、ヘブライの指導者となるためには、エジプトでの身元を明らかにしたくない。しかし、事情があってミデアンに逃れたことは間違いがない。そこでその間のいきさつに疑義をもたれないために、逃亡者の物語を挿入したのではないか。
それでは、エジプトの王家の一員であるモーセが、身一つで、遠いミデアンの地まで逃れなければならないという「王家の争乱事件」とはなんだろうか。そのまえに、ここまでのモーセをみて、その生い立ちや素性の謎を、もう一度整理したい。まず生誕から振り返ると、「モーセはヘブライ人の正当でない嫡出子として生まれ、川に捨てられ、それが幸運にもエジプト王家の者に拾われ、王子のように育てられる。」まずここまでの部分だが、古代の英雄譚にはこうした「誕生ー捨て子ー他人の養育」というパターンは多い。
古代バビロニアの英雄王ギルガメッシュも、赤ん坊のときに神に犠牲として谷に投げ落とされ、それを大鷲が受け止めて、ある平民の家の庭に下ろされて、そこの家の人に育てられた、という伝説がある。アッシリアのサルゴン1世の母親は尼僧だったが、外国人の子種で孕まされ、産み落としたサルゴンを藺(イグサ)で作った舟の中に入れて川に流し、やがて舟は下って行き、ひとりの庭師によって拾われ、その後男の子は神殿に仕えるようになり、最後は比類なきアッカドの英雄王となった。モーセの物語とよく似た話である。
ギリシアのペルセウスにも流離譚がある。アルゴスの王は、自分の娘が男子を産み、その子がいずれ王位を奪うという神託を受けたことから、娘を黄銅の塔に閉じ込めたが、大神ゼウスが哀れんで慰めをかけたことから男子が生まれ、それを知った王は娘と男子を箱舟に乗せて流した。やがて舟は大海の果てに流れ着き、漁師によって助けられ、そこで男子のペルセウスは育てられ、やがてギリシア一の大英雄となるのである。
すなわち民族の英雄を、誇りを持って祭り上げる際に、実際には平民の子から出世するのだが、もともとの出生は高貴なものだった、と持ち上げることをするのである。戦国武将が大名となったときに、先祖の家系を皇族などの高貴なところへ結び付けようとするのと同じだ。だから、こうした伝説を分析すると、「拾われた家」がその英雄の、実際の出生地であるのは歴然としている。たいがい、高貴➡流忙➡平民➡英雄のパターンで物語は展開するが、実際には平民がその英雄の出生地であり、そして成功することでこの伝説を創り上げるのである。
ただし、モーセだけはこのパターンが逆になっているのだ。平民➡葦船で流忙➡高貴➡逃亡➡英雄。流された先が、その人物の実際の出生地であるというこうした出生譚からすると、モーセはやはりエジプトの王家の一員であった可能性が強いのではないか。それも拾われた子ではなく、れっきとしたエジプト王家の一員である可能性が大いにあるのだ。
次に整理するところだが、エジプトで殺人を犯し、ミディアンまで逃れ、シナイ山で神と遭遇し、エジプトへ戻り、アロンを立てて王と交渉しようとする部分である。ここでの大きな疑問は、エジプトの王家の一員であるモーセが、人殺しとはいえ、正義心で虐待をする役人を懲罰したことが、逃亡しなければならないことなのか、ということだ。前記では王家の中の権力闘争か、あるいは何らかの争乱が原因で、国外へ逃れたのではないかと推論した。このときのモーセは40歳だったと聖書は記している。それではモーセが国外脱出をせざるを得ないような争乱や戦乱が、モーセがいたとされる紀元前1370年前後(±50年)において、エジプトの歴史上、存在するのだろうか。その期間の前後50年の間に、つまり前1420年~1320年の間だが、それに対応するエジプトの王朝は次の通りである。
◎ 第18王朝 トトメス4世治世前1419~1386
・・スフインクスの「夢の碑文」で有名だが、これは王位継承に若干疑義があったのかも知れない。治世は比較的平和に推移
◎ アメンへテプ3世前1386~1349 ・・史上最も繁栄した時代。軍事はヌビアへの遠征くらい。多数の妻子あり。アメン神のためにルクソール神殿などを建立。
◎ アクエンアテン 前1350~1334 ・・アメン神を始めエジプト古来の神々への信仰を止め、アテン神唯一の一神教を宣言。都をアケトアテンに移す。最後は反乱を招き、王が死んだあとの都は破壊された。殺害された可能性あり。
◎ スメンクカラー 前 1336~1334 ・・王弟のようで、共同統治者だったが、同じ頃に死亡。アクエンアテンの敵対勢力によって、同時に殺された可能性もある。王の棺から王名のカルトゥーシュが削られていた。よほど憎まれたのだろう。一説にはアクエンアテン王の妻だった、ネフェルテイティが王を名乗ったとも言われる。
◎ ツタンカーメン 前 1334~1325 ・・9歳で戴冠。王の治世はアイとホルエムヘブの操り人形同然状態で、17歳で死亡。治世中対リビア対シリアとの小規模戦闘あり。頭蓋骨の傷から、殺された可能性もある。なお、正妃アンケセンアメンはツタンカーメンの死後、ヒッタイトの王に再婚相手を直接申し込み、王子が国境までやってきたが軍に殺害された。
◎ アイ 前 1325~1321 ・・宰相。アクエンアテンの正妃ネフェルトイティの父親。ツタンカーメンの妻となった自分の孫娘ンンケセンアメンと結婚し、王を襲名。4年で死去。
◎ ホルエムヘブ 前 1321~1293 ・・アメンヘテプ3世の頃からの軍の指揮官。ツタンカーメンが即位すると「代理人」の地位を確保。アメン信仰を復活。王位を襲うと、30年近く在位したが、嗣子がなく、宰相で親友のラメセス1世に位を譲る。その後ラメセスは第19王朝を開く。
この年表の中で、争乱があったと推定されているのは、第一に、前1334年のアクエンアテン王の末期の時代である。このいきさつというのは、70年前のトトメス4世戴冠のときに遡る。スフインクスの前で昼寝をしたときに、スフインクスが現われて、自分を砂の中から掘り出してくれれば、貴方を王にしてあげよう、という夢を見たことで知られるが、この「夢の碑文」があるところを見ると、トトメス4世の即位については、その正当性について異論があったことが窺われる。つまり、正当な継承者ならば、スフインクスからお告げをもらわなくとも、即位できる。お告げにより即位したということは、クーデターか、それに近い奪権行為だったのだろう。
そしてその襲名に異論を唱えた勢力の一方は、アメン神官団であった可能性があり、そうすると王と神官団の間には緊張が存在しただろう。そうした背景がある中で、トトメスの息子であるアメンヘテプ3世の時代になると、統治に介入する強力なアメン神官団に対して、それらを押さえたいとする王の勢力との、亀裂が深まっていくのは当然の成り行きだった。このとき、通常アメン神官から選ばれる全エジプトの神官長に、王はテーベの宰相のラ・モーセを任命している。そういう中でトトメスの孫にあたるアクエンアテンが王位に就くのだが、彼は、それまでのアメン神を中心とする宗教体系を全て排除して、新たにアテン神だけを唯一神として崇める一神教を興し、そのためにアテンの都を造成して移宮するなど、エジプト至上例のない特異な時代を創った。これには神官長としてのラ・モーセの役割が大きいのではないか。
● アテン信仰の出発点は、首都メンフイスに近いヘリオポリスの神官団ではなかろうか。ヘリオポリスはもともと太陽神を崇拝する拠点であった。太陽神はラーであり、このため過去の王たちもこのラーを王名に取り入れてきた。しかし中部の王都テーベの地方神であったアメン(地中深く秘せられた存在の神で、その本当の姿は人間には見せられない神)を戴く神官団が力を拡大し、王政までも左右する程の権威を振りかざすようになると、ヘリオポリスの神官団は危機感を持ったことだろう。そこで、ヘリオポリスの神官たちは、アメン・ラー教義に対抗するため、ヒクソスが持ち込んだセト信仰(この原点はカナン全域に支配的なバール神を崇拝するものだが)を修正して、太陽神の夕方の姿であるアテンを唯一の神と崇める一神教を主唱し始めたのだろう。それがアメン神官団の圧力を快く思わないアメンヘテプ3世と4世によって、宮廷に取り入れられたのだろう。したがって、ヘリオポリスの神官の中には、バール神をアテン神の原点と見るものもいたのではないか。 ●
こうしてアクエンアテンは、アテン神を唯一の神として、その一神教の信仰に埋没し、アメン神を始め、その他一切の民間の神々までも禁じたことで、王は一般民衆から遊離した結果、国外の植民地の総督などからの報告書(アマルナ文書)にも記録されているように、エジプトの国力の弱体化を招いた。
これについては、エルサレムに派遣されていた総督がアクエンアテン王に書き送った書簡が、アケトアテンの都跡から発見されているが、そこには次のような事が書かれている。
「ハビルは王の全領土を掠奪します。もし射手たちが今年ここに来れば、主なる王の領土は残ります。しかし来ないならばそのときは、わが主なる王の領土は失われます。・・・なぜあなたはハビルを愛し、あなたの総督を憎みますか。」という恨み言のような、尋常ではない文章が綴られている。(「文明のあけぼの」三笠宮崇仁)
ここから見ると、アクエンアテン王にはハビル(ヘブル人のことを指すという説が強い)に加担しているかのようなふるまいがあるのか、それとも他国でのエジプト軍支配を忌避しているかのようなところがあり、前線では王に対する大きな不満が募っていたようだ。そこでアメン神官や軍人勢力(ホルエムヘブを中心に)、あるいは反発した一部の国民を中心に、半ばクーデターのような事態が生じたようで、王が死去するとその墓(王家の谷55号墓?)では、アクエンアテン王のものと見られる棺からカルトーシュや名前さえ削られるという結果を招いた。この死去前後には大混乱が起きたと思われ、王も殺害された可能性があるようだ。(エジプト王国の歴史の中で、クーデターなどで王が殺害されるということは、他に例がない。)それは同時期に死去した共同統治者のスメンクカラーにも及んだのではなかろうか。一部ではスメンクカラーはアメン神官団の優遇を働きかけたという説もあるが、その石棺からスメンクカラーも名前を削られるという恐ろしい恨みを買ったようでもある。一説にはこのスメンクカラーというのは実はアクエンアテンの正妃ネフェルトゥイティだったのではないか、という説もある。
いずれにしろアクエンアテンが死去する前1334年前後には、アクエンアテンの一神教を奉戴する勢力とアメン神官勢力との対立、アクエンアテンの政治勢力と旧勢力との対立が先鋭化し、そのときホルエムヘブ率いる国軍が反アクエンアテンに加担したことから、一挙に均衡は崩れ、アクエンアテン派は弾圧迫害されて逃げ出したに違いない。そのとき反アクエンアテン派が一番の戦犯として追跡するとすれば、アクエンアテン王を別とすれば、アテン教の祭司として活躍した全エジプトの神官長であるラ・モーセではなかろうか。確かにここに、モーセという名が出てくるのである。
もしこの神官長がモーセその人であったとすれば、聖書の伝える物語は、にわかに具体性を帯びてくるのである。仮に、これがモーセその人として話を進めると、彼には、死去した王を支えたアテン教の支持勢力がまだ残っていた。しかしもうエジプトでは、軍を味方にしたアメン勢力を覆すことは不可能だった。そこで自分たちが創造したアテン神の一神教を奉戴して、それをどこかで守り育てようと意図して、そのための民衆あるいは民族を探したのではないか。
そのとき目をつけたのが、ゴシェンの地に住んでいる大勢のヘブライ人たちだった。そのときの彼らは、エジプトに移住してすでに400年、先祖の伝承を持っているとはいえ、シナイ山でモーセ不在のときに聖牛アピスを鋳造したように、民族のアイディンティティをすでに失っていたようである。探索を逃れモーセとその支持者達はゴシェンに潜伏していたが、ゆくゆくはヘブライの民を連れ出して新天地を目指し、新たな王国を築こうと、その準備するために、カナンを始めミディアンやシナイ山周辺を下見し偵察をするのと、同時に身辺に迫ってきたエジプト軍・官憲から逃れるためにエジプトを脱出したのではないか。
その逃亡旅の途中で、ミディアンの地を訪れ、祭司のエテロと親しくなり、その娘を妻に貰い受けることでミディアン人とのコネクションを得るとともに、ミディアン人の持つアブラハムとヤハウェ神伝説を聞き出したのだろう。こうした目的や意図をカムフラージュするために、モーセが殺人罪でエジプトを追われミディアンに逃げ延びた、という物語となったのだろう。ここに登場するミディアン人というのは、アブラハムの2度目の妻ケトラが生んだ4男ミデアンに由来し、アブラハムによって、カナンの東(南)に移住させられ、ぺトラ遺跡の近くに住んでいたとみられる。
こういう推測があって始めて、出エジプト記4章27の「主はアロンに言われた、『荒野に行ってモーセに会いなさい』彼は行って神の山でモーセに合い、これに口づけした。モーセは自分を遣わされた主のすべての言葉と、命じられたすべてのしるしをアロンに告げた。」という、この部分が理解できるのである。たまたまモーセが神の山にいる時にアロンがやってくる、というのは偶然などではなく、事前にモーセから「来るように」連絡がいったことなのであり、再会すると口づけするのは、弟に対する仕草ではなく、高貴な人への挨拶なのである。そしてアロンはモーセから、ヘブライ人移動の計画を打ち明けられたというわけだが、これはアロンがモーセの部下であり、アテン教信者団体の一員であることを、示している。