12章.モーセが行う奇跡の実体は何か。


モーセはヘブライ語もエジプト語も話せない?

 モーセはエジプトに戻り、ゴシュンに住むイスラエル人のところにアロンとともに入り、
 そこでモーセとアロンは行ってイスラエルの人々の長老たちをみな集めた。そしてアロンは主がモーセに語られた言葉を、ことごとく告げた。
 この一節ではモーセが、ゴシェンに住むイスラエル人と、会話ができないのではないかという疑いを抱かせる。つまりシナイ山で、「ああ主よ、わたしは言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです。」と神にも申し立てたように、彼はヘブライ語には弱いのだろうか、イスラエル人の言葉が話せないようだ。
  そしてまたモーセとアロンはファラオの前に立って、イスラエル人の要求を告げるのだが、その前段で神は言う。
 「見よ、わたしはあなたをパロに対して神のごときものとする。あなたの兄弟アロンはあなたの預言者となるであろう。あなたはわたしが命じることを、ことごとく彼に告げなければならない。そしてあなたの兄弟アロンはパロに告げて、イスラエルの人々をその国から去らせるようにさせなければならない。」


 ここでもモーセは直接ファラオに話すのではなく、アロンが代弁することになっている。ではモーセはエジプト語も話せないというのだろうか。 また、主がエジプトの地でモーセに語られた日に、主はモーセに言われた。
 「わたしは主である。私があなたに語ることは、みなエジプトの王パロに語りなさい。」
 しかしモーセは主に向かって言った。
 「ごらんのとおり、わたしはくちびるに割礼のないものです。パロがどうして私の言うことを聞き入れましょうか。イスラエルの人々でさえ、私の言うことを聞かなかったのに、どうしてくちびるに割礼のないわたしの言うことを、パロが聞き入れましょうか。」


 ではこの、くちびるへの割礼がない、というのはどういう意味だろうか。割礼とは、清潔さを求めることと、さらには他との聖別ということで、他のものと画然と区別することにある。また陰部を割礼することにはもうひとつ、包皮に覆われたものの本当の中身をむき出しにする、という事実があり、そこでくちびるの割礼という意味は、「本当の中身で話をする」すなわち「通訳」を交えずに、直接話すことを意味しているのではないか。それがすなわち出来ないので、パロに対して説得力がない、ということを主に訴えているのである。言葉そのものに重みがないということではないのだ。もし言葉に重みがない、ということであれば、それは伝える言葉を言っている主に、重みがないことになり、パロが動かないのも主の責任だと、暗に批判していることになる。だからここでは、アロンを通訳としてパロに話しかけていることが、説得力を持たないと言っているのだろう。

 ではなぜ、アロンを通してしか話せないのだろうか。モーセはパロとエジプト語で話をすることができないのだろうか。話しができないとすればおかしい。モーセはエジプトの王家の出身、あるいは養育された者であるはずだ。これまでの推論でも、モーセはエジプトの王子または王家の一員である可能性が強い。そのモーセがエジプト語を話せないわけはない。それがなぜ話せないかというと、実際には話せるのだが、あえて直接は話せないということにしている、ということではなかろうか。そこで一つの仮説だが、モーセはあえてエジプト語を知っていても話さない、つまりくちびるに鍵をかけている、ということではなかろうか。その理由はなぜか。つまり、モーセの正体を、パロや王朝の人々に知られないためなのだ。饒舌にモーセが語りだすと、王家に育ったモーセだから、その正体に気付くものが必ず王室には居るからではないのか。なぜなら、王室での言葉というのは、平民とは別個だったのだ。それは書き言葉にも現われていて、王家や神官は神官文字(ヒエラティック)を使い、一般平民は民衆文字(デモティックあるいはコプト文字)を日常的に使っていた。それは書き言葉の分野だが、おそらく話し言葉でも、王族と平民とでは、基礎的な言葉に違いがあったのではないか。日本でも皇室で使用される言葉や、江戸時代の武士階級で使われた言葉など、一般庶民とは違う単語や言い回しが生活の中で使用されていた。それからすると、数千年の歴史を持つエジプトでは、王族での日常語はもとより、神官階級の日常語など、階級によって出自がすぐに知れるようになっていたと推測される。そこで、もしモーセがパロの前で語りだすと、すぐにその出生が王家の一員だと知れてしまうのだろう。それを回避するために、くちびるに割礼がない、ということであえて言葉を発しないことにしたのではなかろうか。でなければ、どちらの言語も実際に話さないのだとすると、モーセはヘブライ人でもエジプト人でもない他国の人間、たとえばアラブ人になる可能性が出てくることになる。

神が命ずる9つの奇跡とは何か
 
 さて、話を先に進めよう。エジプトに戻ったモーセは、ゴシェンのヘブライ人を纏め上げ、アロンとともに王の前に立ち、王都を離れることを許可するように迫り、拒む王に対して9つの奇跡を見せる。最後にモーセの神は、エジプトの長子すべてを殺害し、そのため王は神に恐れをなし、エジプトから出ることを許すことになる。

 さて、その9つの奇跡の中身だが、まず最初はプロローグで、杖をへびに変えるというのが出てくる。手品のようなことだが、宮廷魔術師か神官が、モーセと同じ奇跡をしてみせることで、色あせてしまう結果となる。 

 全能の神が背後で力を貸すにしては、随分みみっちい手品ではなかろうか。現代の手品師が舞台で見せるイリュージョンに比べると、神がするにしてはお粗末である。察するにこれは、モーセ自身がかって王家の一員として神官職などにあったときに、こうした秘蹟(手品)を上手にやり遂げる訓練をしていたということではないか。それで同じ神官たちによって、同様のことがされてしまうことになったのだろう。したがってこのことは、モーセが王家の一員でかつ、神官団の一員であったことの証拠とも言えないか。


 次は、ナイル川全体がモーセの杖で血の色になってしまった奇跡が出てくる。ここからが本格的な奇跡のオンパレードで、モーセが神の力を借りて、または神の命じるままに、9つの奇跡が繰り広げられるのである。まず、「ナイル川を血に」染める、次に「蛙」がエジプト中に溢れる、あるいは「ぶよ」が人と家畜に取り付き、さらに、地に「あぶ」が群れて害をなし、すべての家畜に「激しい疫病」がもたらされ、人と獣に膿の出る「腫れ物」が大流行し、大きな「雹」が降下して野に居るものを打って殺し、またエジプト中を「イナゴ」が襲って地の総ての青物を食いつくし、いよいよエジプト中を3日間の間、濃い「暗闇」が支配することになった。だが、この9つの奇跡でもファラオは要求を呑まないので、最後に、エジプト中の「初子をすべて撃ち殺す」という過ぎ越しの悲劇を、神は用意するのである。

 だが、こうした奇跡話の詳細と、それが物理的に説明のできる自然現象であり、その本当の事件の姿はどうか、ということを分析する前に、考慮すべき前提がある。それは、頑なな王にヘブライ人の脱出を許可してもらうための脅しとして、こうした奇跡が展開してゆくのだが、そのときの王の名前が記録されないところに、この奇跡話の非現実性が現れて来る。歴史記録がかなり正確に残されているエジプトの中で、こうした大掛かりな奇跡がいくつも続いたとすれば、それはエジプトの歴史に記録されて当然で、そうした事情は、エジプトに永年住んでいたヘブライ人の一員であるこの聖書の記録者も分かっていたことだろう。それなのに王の名前や時代を特定できる、何らかの物件一つも書き残さなかったということは、この奇跡物語自体の信憑性が疑われることになるのだが、それでもこうした書き方をせざるを得ない理由としては、後世の人が、この聖書の記録とエジプトの歴史を対比すると、奇跡の事実が虚偽であったことが即座に判明するので、具体的な歴史事項(王名や治世年)を書き残せなかったということだろう。
 例えば紀元前2800年代の第2王朝7代目の王の時代に、ナイル川を11日間に亘って、蜂蜜が流れた、という記述がマネトーのエジプト誌」
に出てくる。蜂蜜が川に流れただけで数千年の間、記録され語り継がれる国だから、ナイル川が血の川になってしまえば、それこそ王の名前は記録されなくとも、この事実は永遠に語り継がれるに間違いない。そうしたお国柄だからこそ、架空の事実を後世に残すとすれば、王の名前も書かずに、時代を特定できないようにするしかないのである。

 さらにもう一つ別の理由としては、モーセが解放を迫ったそのときには、王自体が不在であるか、または年少で表に出て来れないという状況にあったのではなかろうか。あるいはまた、この時代のエジプトの政情に大きな争乱が起きていて、社会治安や市民生活も混乱しているような状況が続いていた、ということも考えられる。ただし、エジプト国内が混乱した社会・政治状況であるならば、王宮へ出向いてこうしたエンターテイメントな奇跡を見せて、ヘブライ人を解放するように迫らなくとも、エジプト国内の混乱に乗じて、そのまま逃亡を始めたほうが早いということも言える。

 そうであればこの奇跡物語は、いくらかはそのモデルらしき事件があったにしても大部分は、聖書を纏め上げた時期の、後世の創作である可能性が強い。モーセが神の力を得て、こうした奇跡物語を悠長に続けたとは考えにくいのである。こうした奇跡の素となる事例はエジプトの長い歴史には過去いくつもあって、そうした経験された疫病や災禍の歴史的な記憶をもとに、それらをモーセの神の力によるものだと書き加えることで、この出エジプト事件を劇的に彩ろうとしたのだろう。そして創作である可能性が大きいとすれば、こうした奇跡の史的実態や、その現象の科学的検討などをうんぬんすることは、あまり意味がないと思われる。


 ただし、過ぎ越しの事件だけは、歴史駅事実として語り継がれて、それが祭りとして現代に至るまで存続するということからして、ここには何らかの歴史的事実となったモデルがあるのは間違いない。では、その過ぎ越しの夜には何がおきたのだろうか。
 1歳の小羊またはヤギを屠り、その血をとって家の入口の2つの柱とかもいに塗り、その夜肉を焼いて、種無しパンと苦菜を添えて食べなければならない。これは主の過ぎ越しである。その夜、わたしはエジプト中を巡って、全ての長子を打つ。」

 神はそう宣言した。夜中になって主はエジプトの国の、すべてのういご、すなわち位に座するパロのういごから、地下のひとやにおる捕虜のういごにいたるまで、またすべての家畜のういごを撃たれた。それでエジプト人は夜のうちに起き上がり、エジプトに大いなる叫びがあった。死人のない家がなかったからである。(出1112

 ヘブライの民だけは、あらかじめ日中に、自分たちの家の戸に小羊の血を塗っておき、この夜を通して、家族で種無しのパンを口にしながら、殺戮を続ける神から身を守り、やり過ごしたのである。これが「過ぎ越し」のいわれだが、これがその後、イスラエル民族の祭りのひとつにとどまらず、ユダヤ教の信仰の原点となる、最も重要な出発点(アイデンティティ)となるのである。
 
 だがこの事件の本当の姿というのは、なんだろうか。そこでひとつの仮説だが、どうもこの事件は、ヘブライ人によるエジプト人民家への夜襲であり、エジプト人家庭の子供や弱者を虐殺して廻った事件ではないのか。その根拠というのは、虐殺が起きる当日、ヘブライ人の家の前に小羊の血で印をつけて廻ったことにある。これは夜半各民家を襲うときに、エジプト人とヘブライ人と間違わないため、あらかじめ印をつけて廻ったのだろう。全能の神ならば、印がなくとも民族を間違えることなどありえないだろう。だから、この虐殺は神によるものではなく、人間の仕業なのであろう。そしてこのことが、後世マネトーによって、オサルセフの非道な仕業として伝えられることになるのだろう。


 「エジプトを完全に征服したと見て取るや、極悪非道の民は、この国を許さなかった。ゆえに町や村に火を放つのみならず、神殿を荒らし、神々の像を破壊して、かって崇拝された神聖なる動物を焼き、神官や預言者にそれらの動物を殺させ、彼ら身ぐるみをはいで国外に追放した。」


 聖書でも、これがヘブライ人の仕業であることを、ほのめかすことが書かれている。
 イスラエルの人々はエジプト人から銀の飾り、金の飾り、また衣服を請い求めた。こうして彼らはエジプト人のものを奪い去った。」

 つまりこの過ぎ越しとそれに続くエジプト出立というのは、虐殺と略奪と逃亡であり、まさしくこの「過ぎ越しの事件」というのは、この民による武装蜂起なのだ。
 「イスラエルの人は武装してエジプトの国を出て、上った。」(出13-18
 砂漠へ逃れた民が武装している、とも書かれているのがその証左でもある。

 こうしてヘブライ人は虐殺と、掠奪を繰り広げて、エジプトを出立したのである。こうした事件を巻き起こす以上は、なにも奇跡を見せて許可を得る必要など、どこにもない。またこうしたヘブライ人たちは、オサルセフの物語のように「汚れたエジプト人」だったとするならば、その多くが伝染病などに汚染された人々であり、それならば一般のエジプト人や軍隊なども、近づきたくはないだろうし、国外へ脱出しようとすれば、逆に大いに喜んだことだろう。

 そこでもう一度、アクエンアテンのアトン神信仰が、モーセのヤハウェ神に繋がったという説を検討しよう。アートン教の教義の中心は太陽崇拝であり、アートンは太古の太陽神の名前であり、それはヘリオポリスから始まった。この神には姿や形はなく、降り注ぐ「慈愛と平和」が太陽光線として表現されている。王は偶像崇拝を止めさせ、エジプトの伝統である神聖動物を崇拝することも止めさせ、また動物を犠牲にすることもなかった。

 そしてこの神の教えによると、周辺国家に対しては掠奪や異民族支配を潔しとせず、むしろ平和的な博愛に基づく共存を好んだように見える。そうした性向から見てみると、モーセがこのアートン教の指導的神官だったとするならば、アートン教の信仰者を含む大勢のイスラエル系移民を導き出すときに、この教義を根底に据えて指導するだろう。エジプト人を虐殺・略奪して逃亡するなどはあり得ず、むしろ平和的にエジプトから逃れて、人跡未踏の地で遊牧と農耕生活を指導するだろう。朝夕は地平線の太陽を拝み、讃歌を唱え、魔術的な奇跡などは信じることが無い。こうした性質が見られれば、アートン教の影響を受けた集団だといえようが、現実の彼らは、エジプト人を虐殺。掠奪して逃亡し、砂漠か荒野に逃げ込んで、そこでヤハウェというシナイ山に棲む神から、契約を迫られて、掟を与えられる。しかしその掟になじめず、反逆や仲間割れを何度も繰り返し、やがて南レバント地方へ乗り込む頃には、他民族は全て虐殺し絶滅しようとする、恐るべき殺人マシーン集団に変貌しているのである。


 この集団にアートン教が関わるとすれば、それはヤハウェだけを唯一の神として認める立場だけなのだ。ただし、ひとつ気になることは、ヤハウェが出現するときの「燃え尽きない柴の中の炎」という現象だが、これを自然現象の中で見てみると、ひとつには夕焼けのときの空、あるいは立ち木の向こうに沈む夕陽を、意味しているのではなかろうか。もちろん「燃え尽きない」ということはないのだが、その荘厳なサンセットには人を陶然とさせる力がある。そしてアートン教は、その夕陽を神と見立てたものであり、その夕陽に向かって礼拝をしているのである。

 ここで仮説だが、もしモーセがアートン教の神官だったとすれば、夕陽の中で出現したのはヤハウェ神であり、それをエジプトへ持ち込み、ヘリオポリスの神官に就任したことを機会に、夕陽の神としてのヤハウェをアートンと名乗らせたのだろう。そのアートンをアメン神の対抗馬として持ち出して、やがてアメンヘテプ三世を始めその息子のアクエンアテンの支持を受けることになったのではないか。やがて国教に近いところまでアートン教は高められたが、突然アメン神を信奉する勢力によって王もろとも駆逐されることになった。そこで本来のヤハウェ神に戻り、その腹いせにエジプト人を虐殺して逃亡をする中で、ヤハウェ神の山に巣食う本来の姿が現れて、付き従う民衆に対しての過酷なまでの欲求が高まっていったのではないか。それだと、アートンからヤハウェへの転換の道筋が見えてくる。

 7章で「モーセがパロと語った時、モーセは80歳であった。」が、ここで理解できることになる。モーセは青年時代に「エジプト人を撃ち殺し、砂の中へ隠した」あと、ミデヤンの地に逃れ、そこでエテロの娘をもらい、ゲルショムという男の子を授かった。エジプトへ帰るときに、ヤハウェの使いが追いかけてきて、割礼を確かめようとしたときに、その男の子の割礼をモーセのものとして見せたが、そのときにはモーセはとても80歳の老人ではなく、文脈からすると、せいぜい3040歳程度の壮年だろう。とすれば、エジプトへ戻った後に、イスラエル人を代表してパロの前に立ったのが80歳だとするならば、それまでの40年間はどこで、何をしていたのだろうか。その答えがヘリオポリスの神官なのではなかろうか。帰国後、つてを頼って神官の一員となり、やがてその異能を発揮して神官長となって、ヤハウェの神をエジプトで発現させようとしたのではないか。

 最大の秘跡「過ぎ越し」だが、それはエジプト市民への計画的虐殺ではないのか

 12 「さてイスラエルの人々はラメセス(テル・エド=ダヴァ/アヴァリス)を出立してスコテ(テル・エル=マスクタ/ピトム=砂漠に面した町)に向かった。女と子供を除いて徒歩の男子が60万人。また多くの入り混じった群衆および羊、牛など非常に多くの家畜も彼らと共に上った。・・この日はエジプトに住んで、430年であった。・・その夜の、過越の祭りは子々孫々これを伝えなければならない。外国人は割礼を受ければ、その祭りに参加できる。」というのが、神がモーセに伝えたことである。

 
さて、この「出エジプト」のクライマックスではいくつもの疑問が生まれる。

 @ イスラエルの人数男子だけで60万人を数えたというのは、あまりにも多すぎないだろうか。ゴセンにこれだけの人が住んでいたとすると、このエジプトの都は200万都市だったのか。しかし、前2000年期のエジプトの総人口は300万〜400万人だった。イスラエル人が60万人で、それに付いて脱出した人を合わせると、200万人くらいになったことになる。それだけの民が、エジプトを脱出すれば、エジプトの国家自体が2つに分裂したことになる。当然歴史に何らかの記録があってもよいのだが、いっさい見当たらない。ということは、記録にもならない少人数の逃亡事件ではなかろうか。


 A 9つの奇跡が実際に存在したとすれば、それに打たれながらも、それでも民を去らせなかったという王は、なんと頑迷な人間だろうか。打たれ強いというか、この強靭な性格からすると、年少の王ではなく年配の王であり、苛酷で果断な判断力を持っている。ツタンカーメンのような少年王ではなく、軍人上がりの野望満々のホルエムヘブ王がふさわしい。彼はアクエンアテン王の父アメンヘテプ3世のときの軍総司令官であって、3代の王が過ぎた後を襲って、ファラオになった。彼の後は、嫡子がいなかったので、(長子がいない!)信頼する宰相のラメシス1世に王位を譲り、そこから第19王朝が始まる。果たしてホルエムヘブの統治時代だったのだろうか。

 B エジプトを脱出し、神に仕える民を育成するために、過ぎ越しの記憶を永久に留めさせることが重要
だった。そこでくどいほど、その内容を詳細に記録させたのだろう。それにしても、過ぎ越しの夜の過ごし方だが、犠牲の小羊の血を玄関に塗り、その肉を焼き、種無しのパンと苦菜を食べながら夜を過ごすということに、なぜ神はこだわったのか。一晩中祈りを捧げ歌を歌う、あるいは踊り歩く、といったような楽しい過ごし方は禁じられているようで、ひっそりと音も立てずに一晩中、耐え忍ぶような過ごし方だが、町の中のエジプト人家庭を虐殺して廻る同胞を応援するには、こうした過ごし方がふさわしいのだろうか。


 C そして、エジプト人の全ての長子とエジプト中の家畜の初子までも虐殺する、というこの変質狂的な凶暴性は、どこからくるのだろうか。(もっとも実際にはそこまで虐殺しつくすのは無理だったろうが。)ヘブライ人たちが武装蜂起するならば、過酷な労働に虐げられた恨みを晴らすために、それを押し付けた役人や軍隊に対して立ち上がるだろうが、それは夜中に押し入るようなことではなく、日中に堂々と軍隊を相手として戦うのではないか。


 しかしこの聖書の記録にあるように、エジプトの一般市民家庭を対象に、虐殺をして廻るというのは、武装蜂起ではなく「市民への恨み晴らし」が根底にあったからではないか。それは過酷な「差別」をされていることに対する恨みだろう。それでは、そうした恨みとなるような原因はいったい何か。430年続いた奴隷に対する恨みということだろうか。しかし実際には囚人のように、鎖で繋がれていた奴隷では勿論なかった。当時のエジプトの一般市民は、古代とはいえ比較的優雅な生活を謳歌していたようだが、それに比べるとヘブライ人たちは、職業も牧畜や農奴に限られ、時には大規模建築の下働きをさせられる生活で、エジプト社会の下層階級として存在していたのは間違いない。

 しかしどういった国であっても、歴史的には下層階級は存在しているが、それが一般市民階級を襲うということはあまり聞いたことがない。そうしたことが発生するには、一般市民との間に余程の「階級間の憎悪が急激に発生」するしかない。そこでこうしたことが起こりうる可能性のひとつとして、このヘブライ人たちの間で「ハンセン病(あるいは疥癬)」が大流行し、一般市民から「汚れた者たち」として呪われた、といった言い伝えが存在することこそが、まさしくこの事件の本質を突いているのではないか。つまりオサルセフの伝説が語るように、「汚れた者たち」はその住居を追われて、追放される状況にあったのだ。そこで彼らは、行きがけの駄賃に、エジプト人の家庭を襲い、それで恨みを晴らし、金銀や衣服・財産を略奪して、逃亡する道を選択し、その指導者にヘリオポリスの神官であり、なおかつ同じハンセン病に罹病していたモーセを選んだのだ。モーセが罹病していたというのは、出4に書かれているモーセとヤハウェの最初の遭遇の時の記録にあることから推理できる。


 「主はまたモーセに言われた『あなたの手を懐に入れなさい』彼が手を懐に入れ、それを出すと、手は、らい病にかかって、雪のように白くなっていた。主は言われた、『手を懐に戻しなさい』彼は手を懐に戻し、それをふところから出してみると、回復してもとの肉のようになっていた。」
そしてこの奇跡だけは、王の前でも試していない。どこにも、誰にも試して見せていない。モーセの手はきれいになっていて、らい病ではない、ということだけを強調するための書き込みなのだ。それは強調しなくてはいけないことなのだった。

 D この「過ぎ越し」の実態は、モーセの扇動により、イスラエルの男たちが、仲間撃ちをさけて、血の塗っていないエジプト人の家を選んで入り、その家の子供を殺しては、金銀を略奪して廻ったということなのだ。それを、後世、神の手による撃ち殺しの奇跡と書き改めた、というのが真相だろう。都市に住むエジプトの住民の家宅に押し入り、殺しまわるためには、5万都市ぐらいだと、1万所帯くらいで、その実行部隊には2千人ぐらいがいれば可能だろう。するとこのあと逃げ出したイスラエル人は、家族も入れて1万人規模ではなかろうか。それでファラオの追撃を逃れて、砂漠へ逃げ出したのだろう。これが日中の武装蜂起ならば、当然ファラオの正規軍が出てきて、街中での戦闘となるのだろうが、真夜中に一軒づつ侵入し、寝込みを襲って家人をひとりだけ殺して廻るとすれば、治安当局の対応は後手後手になるだろう。夜が明けてから、ファラオの治安部隊は動き出し、そのときにはイスラエル人の集団は、武装した兵士をしんがりに、砂漠に向かって立ち退いていた、ということなのだ。






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