13章. 砂漠を歩き、海を別けて、シナイへ




  この出エジプトを記念して、イスラエルは生まれた全ての初子を、聖別して、神のものとすることを、神から義務づけられた。(出13)
  そして神は、ぺリシテ人との遭遇を恐れて、民を紅海に沿う荒野の道に導き、民の前を、「昼は雲の柱夜は火の柱をもって導いた。」 

  エジプト軍の追撃を恐れ、かつ近隣のぺリシテ人の軍をも恐れて、砂漠へ逃げ込む、というのは、明らかに逃亡軍団の状態である。もし神の業で、堂々とエジプトを出発するのならば、見送りはないにしても、追撃を恐れることも無く、カナンの地へ最短の道をとって、途中ぺリシテ国家があっても、主なる神がヘブライ人に代わって、堂々と戦闘を挑み、これらを撃ち破ってヘブライ人に住む土地を与えてくれるだろう。しかし、モーセの神はその道へ民を導かなかった。「民が戦いを見れば、悔いて、エジプトに帰るであろうと神は思った」からだ。虐殺を働いて、エジプトを出立した武装集団なのだが、ペリシテ人を前に対峙したら、怖気づいてエジプトへ逃げ帰る民たちだ、と神はヘブライ人をその程度にしか見ていなかった。確かに武器も少なく、騎馬や戦車も持っていない、さらに軍隊としての訓練もしていない集団だから、まともにぶつかったらあっという間に粉砕されるだろう。それで激突を避けて、迂回することにしたのだが、それではモーセの神は、直接手を下して戦うことをなぜしないのだろうか。

 神はモーセに奇跡の手ほどきをしたのだが、エジプトで起きた数々の奇跡も実は現実の出来事ではなく、虐げられた民衆が隣人のエジプト人を襲って、彼らの財産を掠奪したまま、こうしてエジプトを出ようとしているのだ。ここまでのところでは、「神」の確固たる支配や臨在、さらには指導といった事実は見当たらない。「神」のメッセージは総て、モーセの口から伝わるものでしかない。しかしここでようやく、神の臨在の証しとでもいうものが出てくる
  それは「雲と火の柱」なのだが、
その正体はいったいなんだろうか。詳細は明らかではないので、なにかわからないのだが、民が歩く道筋の前方に、常に「見えるように」存在するものだとすると、シナイ半島の(南方?)にある火山の噴煙と、夜はその噴火による火が見えた、ということなのだろうか。(火山説) それを目指して進んだ記憶が、こうした言葉になったのだろうか。
 するとホレブの山、つまりシナイの山は活火山なのか。どうもそうではない。シナイ山方面にも、あるいはミディアン方面にも、噴煙を上げる活火山らしいものは見当たらないのだ。とすれば、この雲と火の柱というのは、別のものを指すのだろう。
 それは後ほども出てくるが、後方からもよく見えるように、長い棒の先に玉鉾のような雲に似たモニュメントをつけて、夜はそれに松明の明かりが入って、先頭がどこにいるか示したもので、ちょうど大名行列に出てくる長柄のようなものではなかろうか。それを持つのは、「神の使い」と言われたが、おそらく地理に明るい近隣の協力民なのだろう。

 さて、
砂漠に入った民は神の指示により、「ミグドルと海との間の、ピハヒロテの前、バアルゼポンの前に宿営」した。そのイスラエル人を追って、エジプト軍が現れた。この場所が現在のどこを指すのかはよく分からない。
 そ
してエジプト軍が現れると、イスラエル人はモーセに、「なぜ私たちを連れてきたのか、『私たちをエジプトに捨てておいて下さい』といったのはこういうことがあるためなのだ」と言った。この言葉から推測するに、多数のイスラエル人は出エジプトに参加したくなかったが、虐殺の夜があったので、そのまま居残るとエジプト人に、虐殺の共犯に問われるため、いやいや逃亡せざるを得なかった、という事情があるからではないか。また、大規模な虐殺を繰り広げたのは、こうした消極的なヘブライ人をも動員して、エジプト脱出に組み入れるためでもあったのだろう。

 また、モーセのつえで海を打ちなさい、と神は教えたが、「このとき、イスラエルの民の前を行く、神の使いは、移って彼らの後ろへ行った。雲の柱も彼らの前から後ろに立ち、エジプト人との間に立った。」というのは、なんだろう。
 モーセと一緒に、「神の使い」という「人」が付き添ってきたのだろうか。そして「彼」が雲の柱を立てる役割だったのか。するとそれは上方へ向かって煙を上げるたいまつのようなもので、それを高々と掲げて、群集にどこからでも見えるようにしていた、ということか。それだと、昼は雲のようにくすぶって煙をたなびかせ、夜は炎が良く見える柱になるので、目印になる道理だ。そうした松明柱を掲げるならば、別段神にお出まし願う必要はない。モーセが示す行く先に、モーセの配下のものが高い棒に細工した松明を持って、先頭に立てば、それが神の仕業となるということではなかったのだろうか。


 モーセが海の上に手を差し伸べると、海が退いて陸となった。イスラエル人は海の中の乾いた地を行った
が、水は両側に垣根のようになった。そのあとをファラオの軍が進んだが、轍はぬかるみにはまり、動かなくなった。そのときモーセが手を差し伸べると、水は流れ返り、すべての軍勢を覆い、ひとりも残らなかった。それでイスラエル人は主とその僕モーセとを信じた。「十戒」の映画で、紅海が二つに割れ、水が通路の両脇に逆巻き上がる有名なスペクタクルシーンである。

 紅海の奇跡を経験したイスラエル人は、神を讃えた歌を歌い、アロンの姉の女預言者ミリアムはタンバリンを取って女たちと踊った。」

 ● この紅海を2つに割る、という壮大な奇跡で初めて、私たちは、ヤハウェの神の偉大さを知ることになる。これぞまさしく人知を超える奇跡そのものだ。それは神自身も知っていて、このことで「誉れ」を得ようと宣言している。その場所は、スエズ運河沿いにあるビター湖の畔あたりだろうか。そこは古来エジプトとミディアン(現在のアカバ・エイラート)を結ぶ隊商路に近い。ビター湖の対岸は近いところだと、12kmぐらいだから、底が干上がっている間に渡るとすれば、老人の足でも可能だっただろう。

 エジプトには、第4王朝のクフ王の時代に伝わる伝説に、池の水を二つに割り、その一つを別の一つの上に重ねる、という魔術を使う神官の話しがある。この海を真二つに割る奇跡というのは、そうしたエジプト古来の魔術伝承のひとつだろうか。
 またビター湖以外で、エジプト軍を溺れさせるやり方のひとつには、海の浅いところを選んで、砂や石ころを順送りしながら埋め立ててひとつの道を創り、その道の真ん中をこんどは低く掘り下げながら、対岸へ到達するようにして、イスラエル人が渡ったあと、モーセの合図で、その真ん中へ両側の海水を流し込むことで、道を破壊するという方法もあるのではないか。ただその場合は、あらかじめ宿営の場所を定めて、そこへ民を誘導し、こうした仕掛けを設営しておかなくてはならない。それもかなりの人員が必要である。大掛かりな奇跡を演出するという目的で、「神の使い」たちが、先回りして、用意してくれれば可能ではなかろうか。

 イスラエルの人々に告げ、引き返して、ミグドルと海との間にあるピハヒロテの前、バアルゼポンの前に宿営させなさい。あなたがたはそれにむかって、海の傍らに宿営しなければならない。・・わたしはパロとそのすべての軍勢を破って誉れを得、エジプト人にわたしが主であることを知らせるだろう。」という神の言葉は、その奇跡が起きる場所を特定し、その場所に居るように執拗に確認をしている。川ならば、上流でせき止めて、敵が渡るときに水を一時に流すといった戦法が、中国でも日本でも歴史上見られた。ここは湖か海なので、その仕掛けは難しいが、しかし1万人ぐらいの民衆を渡すために、そしてエジプト軍を誘導するために、あえてこうした仕掛けを用意したのではないか。

 では、その仕掛けを演出したのは、誰なのか。もう少し検討する必要がある。  ●

 それからの民はエジプトを出て、紅海からシュルの荒野に入り、エリムに着き、2ヶ月目にはエリムとシ
ナイの間のシンの荒野に来た。そこで民は「エジプトでは肉の鍋の傍らに座り、飽きるほどパンをたべていたのだが・・・」とつぶやいたので、モーセとアロンは、「夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるだろう。」と言った。それから夕には「うずら」が飛んできて宿営を覆った。朝は周囲に露が降り、それが乾くと、薄いうろこのようなものが残り、それは白く、味は蜜を入れたせんべいのようで、「マナ」と呼んだ。
 それは日中、日が暑くなると溶けた。そして一部を子孫に見せるために壷に蓄えることを命じた。

 ● 「マナ」・・・この食物はなんだろうか。自然現象の中で、食べられるせんべいが朝降ってくる、というのはどこの伝承にもない。これは全くの創作だろうか。マナについて「聖書名言辞典」では、「ギョリュウ科の木についた小さな虫の出す分泌物が、地上に転がり落ち、夜気温が下がると固まる。それではないか。今でもシナイ砂漠の遊牧民たちは砂糖の代用品にする。」とある。 ギョリュウはタマリクスともいい、水辺の湿ったところに栽植される落葉樹で、高さは7mに達するものもある。原産地はモンゴルから中国北部にかけての乾燥地帯である。枝は細く柳のようにたれ、1cm程度のうろこ状の葉をつける。

 「マナは夜明け前の露が上がるときに、荒野に落ちているもので、白い霜のようなもの、うろこのような細かいもので、時間を置くと、虫がわき、悪臭を放ち、さらに日が高く上ると溶けてしまう、」と記録されている。イスラエル人はそれを、一人当たり2リットルづつ集めて、食したという。相当数の民がいるのだから、そのマナの量も半端ではない。果たして虫の分泌物だろうか。
 また、シナイの砂漠(荒野)地帯にギョリュウの繁茂地帯が都合よく存在するだろうか。荒野はあくまで荒野で、石と砂と少しの草と、灌木がところどころに散在するような、不毛地帯なのだ。虫の分泌物がひとり2リットルも採集できるとは思われない。推測だが、これもまた一行を誘導する神の使いと称する部族民による非常食(今でいう乾パン等)の供出ではないだろうか。
 
 確かに、相当の民(おそらく数千〜万人規模)が荒野を行進しているわけだが、食糧と水は喫緊の課題だろうし、多少の蓄えも底をつけば、どこから調達するのか、何の考えもなく動いていたとは思えない。これは次の17章の水のことでもいえることだ。こうした荒野に道をとること自体、なんらかの方策がなければ自殺行為だろう。民の不平は当然だ。早くカナンへの道をとり、途中に敵があっても戦うほうが、良いのではないか。

 それを、マナや鶏肉や水を与えながら、砂漠で唯一神に完全に帰依するように、宗教教育をすることを優先するというこの神はなんなのだろう。そうまでして、自らを唯一絶対の神と信じてもらいたいのだろうか。こうした手法は現代でいえば、人間集団を、自分に絶対忠実で、かつ自分を崇拝する集団に仕立てたいという、新興カルト宗教のやり口とよく似てはいまいか。

  ●
イスラエルの民はシンの荒野を出発し、レピデムに宿営したが、そこには水がなかった。民は不平を言いつのったので、モーセは長老たちを連れてホレブの岩を打ったところ、水が湧き出した。また、そのレピデムでは、アマレクが来たので、ヨシュアを立てて、戦った。モーセが手を挙げるとイスラエルが勝ち、手が重たくなって下がると、イスラエルが負けるという。最後にはイスラエルが勝った。

 舅エテロとの再会


 さて、モーセのしゅうとミデアンの祭司エテロがやってきて、モーセと再会、出エジプトのいきさつを聞
いた。また、モーセが小さいことまですべて携わっていたので、有能な人を選んで、民の中に各レベルごとの長を置き、仕事を分担させることを助言したので、その意見を取り入れることになった。
  さて、ここにエテロが登場する。第2章、ミデアンの地で、祭司エテロの娘たちを助けたモーセが、「この人とともにおることを好んだので」と書かれたのは、文脈上は妻のチッポラではなく、実はエテロを指すのではないか。モーセは、レビの出身とされているが、どうも「割礼」もしていなく、イスラエルの宗教にも詳しくない。エジプトの王宮で育ったというのが、その原因なのか、それとも最初から、エジプト人であったのか。その彼が、イスラエルの伝承を勉強し、特に「ヤーウェ」を信仰するきっかけになったのが、このエテロではないか。
 
 「ヤーウェ」信仰は、ミデアンに近いエドムあたりに発祥している。とすれば18-12
 そしてモーセのしゅうとエテロは燔祭と犠牲を神に供え、アロンとイスラエルの長老たちもみなきて、モーセのしゅうとと共に神の前で食事をした。」、と表現されているが、この神に供えて食事をすることを主宰しているのはエテロであり、それも「慣れた手つきで」ごく自然になされている様子だが、これは「エテロの神」に、モーセや長老をともに同席させた、というのが本当のところではないか。
 続いてまた、「あくる日モーセは座して民をさばいたが、民は朝から晩まで、モーセのまわりに立っていた。(つまり周りの人は何一つ自分からしようとはしていなかったのだ。)」そこでエテロは、「あなたのしていることは良くない。・・今私の言うことを聞きなさい。私はあなたに助言する。」として、モーセの行政処理の仕方を指導している言葉は、まるで神に代わって指導しているようだ。こうした行政区分を創造するのは、本来なら神の言葉で指示があり、千人の長や百人の長を置くという流れになるのではないか。どうもこうした言葉の端々から見えてくるのは、このエテロという存在は、場合によってはモーセよりも「神に近い」人物ではなかろうか。


 さらにまた民数記10-29では、「モーセは、妻の父ミディアン人リウエル(エテロのことか)の子ホバブに言った『わたしたちは、かって主がお前たちに与えると約束された所に向かって進んでいます。あなたも一緒においで下さい。・・』彼はモーセに言った、『わたしは行きません。私は国に帰って、親族の下へ行きます。』モーセはまた言った、どうかわたしたちを見捨てないでください。あなたはわたしたちが荒野のどこに宿営すべきかをご存知ですから、私たちの目となってください。・・』」という言葉がモーセの口から出ている。このことからすると、このエテロとその近親家族たちは、この地域の地理に詳しく、それで荒野を彷徨うモーセたちの前後を見て、行く先を指導し、シナイの山へと導いていたのではないだろうか。そうすると、このエテログループこそが、ヘブライ人の集団の前後に、前方の雲であり炎となった「松明」を灯して行く先を案内した「神の使い」ではないのか。
 
 そうだとすれば、モーセが最初のシナイ山で出遭った神というのは、このエテロの神であり、それはエテロの仲介があって始めて可能なことだったのだ。そしてエテログループが「神の使者」だとすると、「神」そのものはエテロ自身であった可能性もある。モーセにイスラエル人の歴史と使命を教え、バール神をモデルとした唯一神の存在と教義を伝授し、エジプトへ戻って、太陽神を中心とする一神教を提唱して王家の支持を得る事、その上でエジプトの実権を奪い取って、エテログループが神の一員として、あるいは使者としてエジプトの支配に乗り出す、という目論見が在ったのではないか。


 ところが民を率いて戻ってきたシナイ山では、モーセはエテロの神を信仰するのではなく、全く別の神を呼び出してしまったのだ。そこで両者の決別が訪れたのだ。
 
   ホレブの山で待っていたヤハウェは、そういう姿のどういう実体だったのか


 エジプトを出て3ヶ月目に、民はシナイの荒野に入り、シナイの山の前で宿営した。そこで主は、「わたしは濃い雲のうちにあって、あなたに臨み語るのを、民に聞かせて彼らに長く信じさせる。」、それで、民に衣服を洗って清めさせ、山の周囲に結界を張り、準備させた。

 シナイ山は全山煙った。煙はかまどの煙のように立ち上り、全山激しく震えた。ラッパの音がいよいよ高くなったとき、モーセは語り、神はかみなりをもって答えた。そして山の頂にモーセを召し、民が上がってこないように戒めるように指示したが、モーセはその心配はないといったところ、「行け、下れ」と一喝し、アロンとともに再度山頂へ上がるように命じた

 そしていよいよ十戒の登場である。「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたはわたしのほか、なにものをも神としてはならない。・・・どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、私を憎むものには父の罪を子に報いて、3~4代に及ぼし、・・・
 
 こうしてモーセの神は、自分の民に数多くの掟を渡し、それを守ることを条件に保護する契約をした。と
ころで全能の神で、すべての生ける人類の創造者たる神であるならば、その中の一つの家族を選び、それと契約して、その守護者になるというのは、どうにもおかしい。どの民族にも、選別の機会を設け 、その結果アブラハムの一族に絞り込まれたというのなら、それもあるかもしれないが、他の 民族には全く関与せずに、イスラエルだけに現れるというのは、全能の神でもなく、至高の神でもないのではないか。

 このヤハウェ神の立場からすると、ほかに何人も神はいるのだが、自分だけのいいつけを守り、自分だけを崇め、いいつけに素直に従い、浮気をしない民族集団として生きるのならば、その民族のために、手を差し伸べて保護してやろう。特に、自分の大嫌いなバール神というのは、不倶戴天の敵で、ともに天を戴かずということなのだ。

 ● 「出エジプト」という事件は、その規模には各論があっても、現実にはそれに良く似た事例が起きたと見るのが歴史的にも自然だろう。そうならば当然に指導者がいただろうし、それがモーセならば、そのときに起きた試練や成功事例をまとめて、その民族の試練と勝利の原因が、全能の主なる神の力によるものだと、彼らは民に説くだろう。そして神は先祖の時代からもイスラエルを選んでいたこと、その神との契約、そのためこれから占領を目指すカナンの地があらかじめ約束された土地だと、民に教え、戦いを鼓吹することになる。

 紅海を二つに割るという奇跡も、実はエジプトの湿地帯を逃げるうちに、逃亡者を探すために追いかけてきたファラオの治安部隊が、湿地帯に足を取られて数頭の馬が横転したのを見て、それを仰々しく書き上げたのが、モデルの事件ではあるまいか。マナの食料にしても、エテロたちの協力者たちが届けてくれた食料で、それを後日、神の恵みと宣伝したのか。

 またモーセはシナイ山に登って神と面談し、十戒の書かれた石板を持って、40日後に山麓へ戻ったが、そこで民の乱痴気騒ぎを見て怒り石板を砕いた、とある。これも石板を授与されるだけなら、40日もかかることはない。もっとも後から出てくるが、実際には神から授与されたのは言葉だけで、石板に彫りこんだのはモーセ自身であり、その作業に40日が費やされた。シナイ山の頂上までは現代だと徒歩でおよそ3時間で登れるので、数日あれば所用は終わるのだろう。しかし40日というのは時間がかかりすぎる。石板の適当なものを切り出して、そこに字句を彫りこむのに、時間がかかったということだろうが、それにしても40日は多い。34章ではモーセが40日かかって、2度目の石板に字を刻んだ、ということが書かれているが、40という数字はイスラエル人社会における「決まり数字」でなかろうか。例えば日本だと、575が俳句の言葉だが、決まり文句にはこの数の言葉がおきまりになっている。同じように、40日という数字も、シナイ半島の砂漠で40年放浪した、というのも数字には根拠はなく、「詩的」に見栄えする数値だからではないのか。十戒も、本来はもっと戒律はあるのだろうが、切りのいいところで、10個にまとめたものに違いない。  ●

 イスラエルの民に規範を授けるヤハウェ、それは人間の行動の細部まで、神が関与したいことを表している

 十戒のいましめを告げた後、ヤハウェは社会生活上の様々な規範を申し伝えている。それは奴隷の取り扱い方から花嫁料まで、さまざまな分野に及ぶが、系統だったものではなく、手当たり次第といった趣である。また、「我々にかたどって、人をつくろう。」として造った人間が、戦勝の捕獲物として「奴隷」とされて、売り買いされていることに、何の疑問ももたず、むしろこの奴隷の使役を肯定する立場から、様々な奴隷使役の法律を得々として語る箇所には、おぞましいものがある。所有している奴隷を、主人が撃ちつけて後日それが死んでも、主人には罪は着せられない。なぜなら奴隷は彼の所有財産であり、人間ではないのである、とヤハウェは語る。こうした「神をも恐れぬ」低劣な主張がヤハウェによってなされ、聖書に載ったことで、いったいどれほどの人々が奴隷とされ、悲惨な生涯を歩まされたことだろう。それは3000年前から始まり、わずか200年前まで、所によっては現代もなお続いている犯罪であり、実に3000年間、人類のくびきとなってきた。その原因が実に、ここから出発しているのである。
 
 こうした律法は、紀元前1350年代の荒野に住む族民たちの中で、独裁的な首長が公布したものならば別段何の不思議もない。しかしこれが、エジプトから虐げられた民を救い出し、彼らを規範的な優れた民族として教育しようとする全能の神の本質だとすると、いったいこの神の素顔はなんだろうか。これはどうしても明らかにする必要がある。しかもこの奴隷に関する律法は、十戒に次いで出てきて、他の全ての律法の最初に位置するのである。よほど重要だと見ていたのだろう。
 

 そして出 21では、奴隷の買い方と処遇の仕方、奴隷の去らせ方、殺人を犯したものへの処罰、奴隷へ
の危害の処置、牛が害を与えた場合などが「神の掟」として、縷々書かれている。これは神が定めたというよりは、この時代のイスラエル人の法が、諸国の法を参考に、司祭などにより纏められたものではなかろうか。それを神の定めた掟としたのだろう。

 ● このモーセの律法の原型と見られるのが、前1750年頃のバビロンの王であったハムラビの法典であろう。出エジプトの21-28、では「もし牛が誰かを突き殺した場合、・・もしその牛が以前から突くくせがあり、・・」と書かれているような、ちょっと普通でない表現なども、

 「もし牛が道を前進していて、市民を突き刺し、・・もしその牛が当局者によってあらかじめ人を突き刺す危険性があることを指摘されて、・・」と、ハムラビ法典250-251で書かれている。ほとんど同じいもので、律法はあきらかにこうしたものを参考に作られている。それを権威付けするために、「主なる神」の言葉としたのだろう。それとも主なる神が、ハムラビ法典の一部を参考にして、モーセに語ったのか。

 いづれにしろこれには、モーセ自身が関わっていて、律法もさることながら、「主なる神」も併せて、創造したのではなかろうか。何者かと、共同作業で。●

 出 2223では、盗人の処罰、家畜の処置、そのほかの様々な事例、処置が続き、こまごました日常の掟が定められてゆく。そしてモーセに語る。


 見よ、わたしは使いをあなたの前につかわし、あなたを道で守らせ、わたしが備えたところへ導かせるであろう。あなたはその前に慎み、その言葉に聞き従い、彼にそむいてはならない
 どうもヤハウェは、直接姿を見せて人々を指導することを避けて、代理人を送り込み、これに指導させるようだが、その代理人は神のような姿をした使者なのだろうか、それとも人間の姿をしているのだろうか。エテロとその息子たちも、そうした神の使いではなかろうかと推測をしたが、この言葉だけでは断定はできない
  
また、モーセは主の言葉を、ことごとく書き記し、山のふもとに祭壇を築き、主に燔祭をささげさせ、また酬恩祭として雄牛をささげた。その血をとって、祭壇に注ぎ、民に注ぎかけて、「見よ、これは主がこれらの全ての言葉に基づいて、あなたがたと結ばれる契約の血である。」

 こうしてモーセはイスラエルの70人の長老とともにのぼっていった。

 彼らがイスラエルの神を見ると、その足の下にはサファイアの敷石のごときものがあり、澄み渡る大空のようであった。神は イスラエルの指導者たちを手にかけられなかったので、彼らは神を見て、飲み食いした。ときに主はモーセに言われた。

 山に登り、わたしのところにきて、そこにいなさい。わたしが律法と戒めとを書き記した石の板をあなたに授けるであろう。」こうしてモーセは山に登ったが、雲は6日の間、山を覆っていた。7日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。そして4040夜、山にいた。と劇的に、興味深い話しが続く。

 シナイの山の中腹まで、イスラエルの70人の長老たちがモーセとのぼると、そこに巨大な円形の、青いサファイア(硬度9の青玉)で作られた舞台のようなものがあり、その中央に「神」が立っていた、というのだ。長老たちは遠く離れて礼拝し、そこで食事もした。モーセはひとり近づいたが、神は頂上近くまで登るように言った。それがこの章で、爾来はじめて語られる「神」との遭遇である。

  聖典に、自分たちの敬愛する唯一の神と遭遇する場面を記録するならば、舞台装置の詳細な記録もさる
ことながら、出現した「神」の容姿やその雄雄しい顔や、ふるまいの様子が詳しく書き込まれるのだろう。彼らにとってその神の風情が、なによりも注目するところなのだ。ところが、そうした神の様子には一切言及せずに、舞台まわりだけが記録されている。これはなぜだろう。神の姿を刻んで、それを拝んではならない。というのが掟の第2である。しかし70人の長老たちは、その神の姿をはっきりと見たのだが、果たしてどういう姿だったのか、もれ伝わってはこない。すると、ここに立っていたのは、足だけなのか。人間の姿をしてはいなかったのか。それとも異形のものだったのか。やはり上半身以上は見ることができなかったのだろうか。あるいは記録はされたのだが、後世神の姿についての記述は、削除されたのだろうか
 
 さらに疑問は、なぜ鉱物であるサファイヤの「敷石」のようなものの上に立っていたのか。それは小さな宝
石が砂利のように敷かれているのではなく、「澄み渡るおおぞらのよう」であった、ということからイメージすると、青いサファイヤのような色で、おおぞらのように澄んでいる、大きな石の上に立っていた、ということで、その敷石はなんとなく金属的なものを連想させる。つまりそこに立っている、ということは、その「敷石」は、立っている「神」の使用するものである。そして長老たちが飲み食いする間、そこにとどまっていたということは、神もまたそこに立ち尽していたのだろうか。これだけ民に見られるのを恐れている神だから、この敷石の上に居たのは、神のダミーの彫像のようなものではなかろうか。
 
 そして長老たちは山を降りて、モーセの帰還を待ったが、4040夜過ぎてもモーセは帰らなかったの
で、神の姿を求めてアロンに像を作るように迫った。そのときアロンが鋳造した神は、金の子牛だった。それを高く掲げて民は踊り狂った、とあるが、長老たちはその金の子牛に異議を唱えない。ということは彼らが山で見た神の姿は、子牛だったのだろうか。青いサファイヤのような敷物の上に、神に捧げることを求められた雄牛の彫像が置かれていて、それを眺めながら長老たちは食事をしたのではないか。
 そしてモーセは神のいる頂上を目指して山に登り、6日の間山を覆った雲にさえぎられていたが、7
目に雲の中からヤハウェが呼んだので、そばに近づいた。このときの面会の中で、まず神はアークの製作を命じて、詳細な設計図を説明する。(以下要約)
 彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。あなたは純金でこれを被わなければならない。長さは2キュビット半(古代イスラエルでは109cm)、幅は1キュビット半(66cm)、高さは1キュビット半(66cm)。その上の周囲には金の飾り縁をつけ、金の環4つを取り付け、金で被った竿でその箱をかつがなければならない。そしてその箱の中に、あなたにあたえる証の板を納めなければならない。また純金の贖罪所をつくり、2つの金のケルビムを造り、ケルビムは翼を高く伸べ、その翼を持って贖罪所をおおい、ケルビムの顔は贖罪所にむかわなければならない。そのところでわたしはあなたに会い、あかしの箱の上にある2つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために、わたしが命じようとするもろもろのことを、あなたに語るだろう。」

 なんと詳細な説明書であろうか。なんと用意周到な指示であろうか。これが紀元前数世紀の時代に、イスラエルの民に与えた設計図だとすると、この設計者は実に優れた科学者であり、工学技術者であり、電気技術者でなかろうか。このアークのあるところで、神はモーセと、「語り合える」のだ。いったい全能の神が、人工の箱の中から「語る」という伝説や物語が、過去の全ての民族を調べてもあるだろうか。

 このケルビムの間からは音声が出る構造になっているのだろう。であれば、これは間違いなく通信機である。そしてそれがどうして必要なのかが大きな問題となるのだ。イスラエルの民が、いずれシナイ山を離れて移動するとすれば、ヤハウェはどこにでも赴くことができない何かの事情があり、それで通信装置で命令をすることにしたのだろう。

 それは33章でヤハウェがモーセに告げた中にも出てくる。「あなたがたは乳と蜜の流れる地にのぼりなさい。しかしあなたがたはかたくなな民であるから、わたしが道であなたがたを滅ぼすことのないように、あなたがたのうちにあって一緒にのぼらないであろう。」と言った。やはりシナイ山を離れられない事情が確かにあるのだ。その理由のいくつかを推測するならば、まずひとつは、このシナイ山ではヤハウェ神が隠れることができ、人間に姿を見せなくとも意思疎通できる施設が構築してあるのだが、荒野やカナンへ向かって民が移動してしまえば、民の中へ近づくにはどうしても姿や乗り物を見られてしまう危険があること。

 またひとつには、ヤハウェ神もこの地上には常時存在できないようで、遠くへ去っている時期があるのだ。そのときいったいどこへいっているのかは謎だが、そうした時期にも交信が可能なように、このアーク通信機を置いていくことにしたのだろう。
  
 ヤハウェがいなくなった時期といえば、ヤコブがエジプト入りしてからの400年間、ヤハウェ神はどこにも現れていないのである。どこでどうしていたのだろうか。モーセがホレブの山で「主なる神」と出会うところから、再登場となるだが、この空白の400年間というのは何故なのだろう。この神の特性としては、自分専属の民を育成し、そこに支配力を行使する、という傾向が強い。それではこの前17001400年の時期に、世界の歴史上、良く似た1神教の君臨した社会・国家はあったのだろうか。

 この時期に繁栄を迎えたいくつかの文明といえば、まず、中国では「殷」(商)が上げられる。前1600年ごろに成立した王朝で、湯王から始まって500年間栄えた。その前の「夏」の王朝は、伝説の要素が強いので、歴史上実在が確定しているのはこの王朝からである。しかもその出現は唐突で、王権の強大さは比類がなく、王陵を発掘すると殉死者が1万数千人もあって、発掘者を戦慄せしめている。また、亀甲や獣骨を焼いて占卜したが、重ねて占卜の都度、犠牲の供え物を増やしている。
 
次に、怪物ミノタウロスの伝説で知られるクノッソス宮殿は前17001450の時代に最大の繁栄を迎え、その宮殿は大迷宮と呼ばれた。また、ギリシアのミケーネ文明は前16001200に繁栄した。
 さらに、南米のアンデスでは前1800年から1500年にかけて大規模神殿の建設が進められ、コトシュ遺跡は「交差した手の神殿」として知られるが、その文明の内容はまだはっきりとは分からない。前800年頃に神殿は一斉に放棄されている。
 また、前1500年頃を頂点に、前20001200の間に栄えたのが、謎の王国ヒッタイトである。鉄器と3人乗り戦車を武器に、エジプトと並ぶ大帝国となった。突然現れたこの国は、また突然歴史上から消え去ってしまった。その歴史や民族の全貌は近年の発掘でようやく解読されようとしている。
 こうして、イスラエルの民と疎遠になっていた時期には、いくつもの民族興亡があるのだが、果たしてそちらのほうへ、歴史・民族介入をしていたのだろうか。だが、どうもイスラエル方式との明確な相似点は見られないようだ。

 そこで、もしそうした他民族との繋がりが全くないということであれば、この神は地上にいなかった、ということも考えられるのではないか。つまり何らかの事情で、地上を離れて本拠地へ戻っていた、ということも考えられる。そのために、イスラエルの民に、関与することができなかった。そこで、モーセの時代以降には、こうした空白期間をなくするために、聖櫃アークを利用して、地上の司祭と通信をすることとしたのだろうか。だがそれも、イザヤ以降は、聖櫃が大地に飲み込まれて、できなくなってしまうことになったということなってしまうのだが。

 ●「幕屋」、即ち神の臨在する聖所である。分解して移動し、持ち運びができる。その原型のひとつが、ツタンカーメン王の墓の中で発見されたもので、金張りの木製聖所が4つ入れ子となっていて、王の遺体を守っていた。この聖所は持ち運びが簡単な、かつぎ棒が通されている「木箱」で、「契約の箱」アークの原型にそっくりであり、このアーク製造のモデルになったのだろう。つまりモーセの指示した神の臨在所は、エジプト時代の王が使用していたものを参考に、考案されたのであり、モーセ自身がエジプト王家の一員だったことと、関係しているのではなかろうか。  ●
 
 こうしてアーク通信機の説明が終わると、続いて移動式の天幕で覆った幕屋の製造図面と、その構造の
説明があり、さらに祭壇、幕屋の庭、ともし火の注文が続く。またアロンとアロンの子等に祭司職を与え、その衣服や宝石まみれの胸当てなどの飾りの詳細な発注があり、そのあとに、犠牲のささげかたに入る。
 その雄羊を切り裂き、その内臓と、その足とを洗って、これをその肉のきれ、および頭と共に置き、その牡羊を祭壇の上で焼かねばならない。これは香ばしいかおりであって、主に捧げる火祭である。」「当歳の小羊2頭を毎日絶やさず、ささげなければならない。わたしはその所であなたに会い、あなたと語るだろう。」、
 これをみると血を振り掛けて祝福をたれ、肉を焼いてその匂いに浸る。この神は草食性ではなく、血と焼肉とその匂いが好物で、できたら毎日味わいたいのだろう。この神だと、初物の穀物を捧げたカインを好まずに、初子の獲物を捧げてきたアベルを祝福したのも、うなづけるところだ。続いて香をたく祭壇の製造、手足を洗う旋盤、聖なる油の製造、さらにこうした器具類を鋳造する職人を指名し、7日目の安息日を厳密に守ることを教え諭して、「石板」を渡した。

● ヨベル書50

 この主なる神の命じたことで、最も重要なのが、律法であり、その中でも割礼と安息日である。安息日については、「その日には君たち自身も、子供や奴隷、家畜、きみたちのところにいる客人も、いっさいどんな仕事もしてはならない。したものは死刑に処すべきである。この祭日には存分に食いかつ飲み、主の前で香をたき、供物といけにえを捧げる以外に、人間の仕事に属するいっさいの仕事を休まなければない ●




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