1章.はじめに

旧約聖書の神ヤハウェを研究するにあたって


  
旧約聖書の中の最初の5書は、モーセの律法の書とされている。イスラエル民族を導いた主なる神と、民との間で交わされた約束の地をめぐる契約、その由来、そしてその契約が現実となるまでの経過を綴ったものである。そのプロセスの中で、神に選ばれその祝福を受けた歴史と、それに対する民の動向を、詳細に記録したものであるが、モーセその人が執筆して、その羊の皮の巻物を、主なる神の指定した契約の箱の横に置いて、保管させてきたものといわれる。「トゥーラー」とも言われる。
 
 しかし学者の間では、これらはモーセによって書かれたものではなく、「モーセについてのような話を」捕囚時代のイスラエル人がまとめたものだ、とする説が有力となっている。ドイツの神学者ユリウス・ヴェルハウゼンは1885年、モーセの5書にはJ資料(前129世紀のヤーウエ史料)、E資料(前98世紀のエロヒム史料)、D資料(85世紀の申命記的史料)、およびP資料(前65世紀のバビロニア捕囚時代に書かれた祭司的史料)の4大資料が混在していると分析した。今ではそれが聖書学者の常識となっている。


 ともあれ、この5書からユダヤ教が始まり、さらにキリスト教やイスラム教へとその思想が繋がっていくことで、この5書は、人類の過半数を占める世界に広く影響を及ぼしているのが現実である。欧米のキリスト教文化、2千年の流浪を乗り越えてきたユダヤ教の文化、そして中近東からアジアまで、広大な領域に広がるイスラム教の文化の根底には、この5書の基本精神が存在している。それらは各宗教の基礎となり、教徒の生活や身辺を律するのみならず、その行動や思想の根本に、抜きがたい巨大な影響を及ぼしているのである。
  
 さらには欧米諸国や中近東諸国の国力が、世界の隅々までに影響力を増している現在、これらの宗教とは比較的縁の少なかった地域、例えばアジアの諸国にまで、これらの宗教を基にした国際政治上の影響、あるいは経済・文化の面でも国際的な影響力を発揮しているのが実態である。そうしたことから過去歴史上では悲劇的な事例も数多く起きていて、古くはインカ民族を滅亡に追い込んだスペイン人の、黄金の掠奪とキリスト教布教のためのインカ人虐殺、あるいはアフリカ大陸での奴隷売買と植民地支配、さらにはアジアへの資源略奪を求めての布教活動などがあり、そうした行動の根底には、実にこのユダヤ・キリスト教の教えが起爆剤として潜在していたことは間違いない。それは5書をみれば一目瞭然となるだろう。例えば5書では奴隷の存在を肯定し、その獲得や売買などは勝利者にとって当然の権利としているのだ。そうした5書を金科玉条の如くに信奉してきた人々や、今現在信奉してる人々にしてみれば、それが数千年前の古代社会における非文明的な悪習とは見ないで、そうすることが神の命じる意思と信じているので、近代の奴隷使役といった行為についても、その当時の大半の信者は、なんの良心的な痛痒も持たなかったのではないか。   
 
 また、ヤハウェに敵対する民族は、老若男女を問わず根こそぎ絶滅させなければならない、といった他民族への寛容のない熾烈な敵対意識が、この5書の中では綿綿と綴られていて、それは数千年を隔てた今現在の世界にもそうした「ものの見方」は、亡霊のように生きて蠢いているのである。戦争行為においては、戦闘員を殲滅し、武力を揮えなくすることが目的であり、婦女子は言うに及ばず一般市民の命や、その生活手段を奪うことまでは許されない。これは現代の戦争では自明のことであり、マキャベリも「戦争の目的は征服することにある。征服した土地を確保して繁栄に導き、征服地も本国も貧しくならないように工夫しなければならない。」と語っている。それを住民全員を虐殺するのは、これは戦争ではなく、絶滅行為であり、人間同士のすることではない。そうした規範を持つことで人間は、かろうじて本能だけで動く動物より、人間へと進化してきたのである。
 
 私たちが生きているこの現代の世界に、今なおこうした大きな影響力を持つのがこの5書であるが、その中に数多くのこうした悪意の意思があるとすれば、それはいったいどこから生まれてくるのか。そしてそれを求めるヤハウェなる神とはいったいどういう存在であるのか、それを明らかにすることが必要ではなかろうか。またヤハウェ神には秘さなければならない重大な秘密があるとすれば、それを明らかにすることは、大変重要なことではなかろうか。

 「キリスト教のグループにせよ、個々のキリスト教徒にせよ、正統的になればなるほど、それだけ一層その態度は軍国主義的であった。キリスト教内部に見出される軍国主義の起源を考察してゆくと、明らかにそれらは共通して旧約聖書を典拠としている。(P.C.クレイグ「聖書と戦争」)」

 そこで今回、ユダヤ・キリスト教世界とは違う東洋の世界に位置するものが、この旧約聖書の内容について研究論評するというのは、その資格を問われるかも知れないところだが、反面旧約聖書の様々な疑問点をもとに、第3者としての立場から冷静に客観的にその内容を吟味することは、時代の要請に基づくものではないか、と思慮する。

 5書に書かれている一番のテーマというのは、「主なる神」の実在、あるいは臨在であり、それがこの宗教の基本であって、最も重要なことである。それが聖書の一番のテーマであり、その神の臨在でイスラエルの民は救済されて来ているのである。しかもその主なる神は、宇宙を統べる霊的で象徴的な存在などではなく、「現実の中でそこにいま生ける神」として、様々な足跡を残すものであり、数ある民族の中からイスラエルの民を選び、常にその民に臨んで、直接指導をし続けたのである。そうした行動する神という点では、他の民族の守護神にはない、特異な存在である。その「生ける神」が唱え、教導した指針が5書の基本であり、イスラエル民族の行動の基本となったのである。したがってモーセと併せて、その実在については、歴史的にも検証があってしかるべきであり、もしその「主なる神」が実際に存在したのであれば、その神はいずこより来て、いったいなにものであり、いまいずこにいるのか、そしてその教えはどういう値を持っているのか、そこを明らかにしたいのである。

 もっともユダヤ・キリスト教徒においても、主なる神(ヤハウェ)というのは、モーセや後代の司祭たちによる創作の産物であるとする見方もあり、あるいは霊的な存在であって、神の行動は比喩の一部だとする解釈もある。だがその場合でも、そのモデルとなったものはいったい何であり、その神の起こした奇跡や力の正体はいったいなになのか、それらに納得のいく説明なり、実態を明らかにすることは、神の存在解明に不可欠となるので、そうした観点からも徹底して検証して行きたい。

 そこで考察を進めるに当たり、いくつかの基本原則を挙げておきたい。
 
 まず第一には、考察の材料は「旧約聖書の字句をそのまま基本とする」、という点にある。訳文の聖書を材料としているので、ヘブル文字による原文の意味合いと、多少の違いが生じることがある場合は、あらかじめ御容赦いただきたい。

 この字句どおりに解釈を進める理由とは、旧約聖書の中でも繰り返し言われているところだが、「主の語られた言葉」や「主のなされたこと」は一字一句違わずに、イスラエルの民に伝えるべき義務が有り、書かれている言葉は変えてはならない、という記述にある。特にモーセ5書は聖櫃の横に置かれる神聖なもので、その取り扱いはおろそかにはできない、ということになっていることを踏まえている。

 一般的に、ユダヤ教のみならずキリスト教やその他の信者たちにとっては、この5書の内容については字句どおりを理解すべきものであって、その内容を分析したり、それに疑問を挟むことは許されないことであり、そうした行為は、主なる神を冒涜する行為ともなると見ている。特に、キリスト教を原理主義的に解釈する宗派は、その典型である。そこで今回の分析では、彼らと同じ資料を利用するという観点に立って、旧約聖書のみを基本材料とすることにして、その内容の問題点を明らかにしてゆきたい。それでとりあえずは、日本聖書協会出版の55年改訳版を底本とした。

 ただし、旧約聖書が成立する過程で採用されなかった外典や偽典については、聖書と同レベルの資料価値を持つものとして、検証材料に加えることとする。ただし、外典偽典のうちでも、明らかに紀元後に書かれたようなものは、旧約聖書の成立時代とは大きく乖離するので、資料とはしない。例えば第2エズラ書や第4マカベア書などがそれにあたる。

 旧約聖書の字句を追ってそれを分析しようとするのは、信徒たちと同じレベルで書かれた内容を解釈するだけでなく、いたずらに超常的な事例を他から引いてきたり、都合のいいオカルト現象を取り上げて、論点を惑わすことがないようにするためでもある。書かれた内容を基本的には事実として解釈し、その事実を積み重ねる中で、その内容に矛盾があればそれを質し、より合理的な解釈をして事実を正してゆく。

 そこで今回の分析では、旧約聖書の5書からエゼキエル書に到るまで、各章ごとに順に採り上げて、記述の中で疑問の箇所を列記し、それに対する筆者の解釈を書いた。そして最後の2章で、ヤハウェ神に対する筆者の見解と、おそらくそうではないかという真実の姿をまとめてみた  

  最後にこのホームページで指摘している旧約聖書の中のイスラエル民族と、その行為について、付言しておきたい。ご承知のように、現代のイスラエル国家とイスラエル民族は、かって紀元前の時代の中近東に居住していたイスラエル民族と、同一のものではない。2千年にわたる民族流浪を乗り越えて、再び中近東の地に集結したとはいえ、かってのイスラエル民族とは一部分、人種的にも違ったものとなっている。このホームページでは、その過去のイスラエル民族の行為を、非難する文言が幾多も出てくるのだが、これはあくまでも紀元前の時代のイスラエル民族のことであり、現代のイスラエル民族ならびに国家とは全く別物である。ご理解いただきたい。
 

      

                      

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