神話の主人公が姿を現してきたのか

    
 ここでいよいよ6大ピラミッドの建設者が、おぼろげながら見えてきました。結論に入ります。
   
  @  6大ピラミッドを造ったのは、オシリスとイシスの悲劇を、未来永劫に伝えようとした、その後継者のホルスと、建設指導者の大神官トート(ヘルメス)によるのではないでしょうか。エジプトの暦を創り、ヒエログリフの文字を創り、知恵の神であり、魔術の主であり、イシスの父親だったのがトートです。エジプトの暦は前4241年のトートの月の第1日から始まっており、それはトートが創ったとされています。つまりその「前4241年」に存在していたトートが、この巨大モニュメントの建設責任者だったのです。
  
  A  その前に、オシリスとイシスの治世が320年と長いことや、イシスの父トートが、320年の後まで残るのはおかしい、という疑問がでてきます。これについては次のように、考えてはどうでしょうか。このオシリス・イシスの治世320年の中身ですが、オシリス王朝の歴代の王と妃が、いずれもオシリスとイシスの名前を名乗って、累代継続したのが実態です。また、王朝の指導的大神官の名前は、累代トートを名乗って、オシリス王朝の智慧と歴史を、伝承していたのではないでしょうか。こうした累代での名前継続を実行すれば、民衆の前ではオシリス王の死と再生が、繰り返されたことになり、そこから現実の王でありながら、冥界をも支配している王として、国民からはまさしく「神」として、崇められ続けることが、可能だったわけです。そこから、「オシリス信仰」が発生したのではないでしょうか。
  
      
  B  さて、オシリスとイシスの悲劇とは、どういう事実に基づいて起きたのでしょうか。また、このオシリス王たちは、いったいどこからやってきたのでしょうか。そこでエジプト神話の謎解きをしてみましょう。まず最初に、エジプト神話によれば、オシリスとイシスは、はるか北の国から、このエジプトにたどりついた旅人でした。伝承では、オシリスは背の高い好男子であり、イシスは白い象牙のような肌を持った世にも美しい女性でした。
  【マネトーは、歴代の王の中で、身長が2.5mほどあった王を、何人も記録しています。すると背の高いことは、王としては喜ばしい資質の一つだったのでしょう。また、イシスの肌が白いということを強調しているのは、エジプト人にとって、好ましい美的資質として、憧れだったのでしょう。これは現代でもいえることですね。だが、それはいったいどこからくる価値観なのでしょうか。別の機会に追求しましょう。】
  
  C  さてその頃のエジプトは、一人の王に治められていましたが、オシリスは人々に農耕や機具など文化の知恵を教えて廻り、イシスは魔術で人々の病や苦しみを癒しました。そこでこの国の人は遂にオシリスを推戴して王としたのです。これがエジプトにやってきた、最初の時期のことです。オシリスはこのとき皆に、自分はリビア砂漠の西にある「アアルーの国(天国の名称)からやってきた」、と言っていますが、それは今のどこにあたるのかは判明しません。しかし、このときの二人はあきらかにエジプト人でありません。この頃のエジプトは、黒人種の国だったのです。
    
  D  この古代エジプトが、黒人種の国だったという論の根拠は、次のような説によります。
   「王朝以前の、ナイル川流域から出土した、約800の頭蓋骨は、1/3以上がニグロであり、彼らが古代エジプト文明を生み出した、支配的な種族だったと言える」(
デビッドソン「古代アフリカの発見」
   「古代エジプト人は、アフリカ生え抜きの、真のニグロだったのである。エジプト人は『レムトウ・ケメト』すなわち『ケメトの人』というように、自分たちを呼んでいた。ほとんどのエジプト学者はこれを、『黒い土地の人』と解釈しているが、レムトウは人であり、ケメトは黒いということだから、これはそのまま読むと『黒い人』となる。」(
セネガルのデイオプ「黒色人国家と文化」
  
  E  この古代エジプト人が、黒人種だったという説については、上記のほかに、前450年頃のギリシアの詩人ピンダロスの、「顔の黒いコルキス人(
黒海沿岸のグルジア地域居住)伝説」に関連して、ヘロドトスの記述した内容があります。「コルキス人はセソストリス王(=センウセレト3世、前1878−1841在位)の遠征で、ここに辿り着いたエジプト軍の子孫である。その根拠は、色が黒く髪が縮れていることと、さらに強力な証拠は、世界中でコルキス人とエジプト人、そしてエチオピア人だけが、昔から割礼を行っているからだ。」という文面があります。ここでは、エジプト人とエチオピア人が同じ種族であることを言っています。
  
  F  ローマ時代のディオドロス・シクロスは、「世界の歴史」の中で、「エチオピア人の言によると、エジプトは彼らの植民地であった。オシリスがそこへ、エチオピア人の一派を連れて行ったのである。その頃のエジプトは海でしかなかったが、ナイル川がエチオピアから大量の泥土を、押し流していったので、ついには埋め立てられて、大陸の一部になったのである。」と語っています。「確かに前4−5000年期は、エジプト全土が入り江または湿原だった、と地理学的には推定され、ヌビアに前4000年頃定着した定住民は、当時の上エジプト人と同一人種であり、交流があった。」という説があります。(
鈴木八司「ナイルに沈む歴史」)
  
  G  それでは、この黒人の国にやってきた、オシリス・イシスの一派とは、何者でしょうか。これはあきらかに、「難民か移民」でしょう。それも北方の、より高度な文化を持つ、白人系の集団で、故郷を離れてエジプトに避難して来たのか、それとも侵略してきたのかは断定できないが、いずれにしろ何らかの事情でナイル川流域に流入してきた民族であり、その首長がオシリスか、もしくはオシリス的指導者だったのでしょう。そしてナイル川に辿り着いたところで、持ってきた自分たちの文化の力で、あるいは軍事力で、エジプトの主権を奪ったのが、神話の基本的骨組みではないでしょうか。
   
  H  【これと良く似た事例で、前1720年頃に侵入してきて、エジプトに第15王朝を打ち立てた、砂漠の遊牧民族ヒクソスがあります。100年ぐらいエジプトの一部を支配しましたが、もともとはフェニキアの出身のようで、マネトーはこの異民族支配を、エジプトを襲った最大の災禍と見ていました。この例では、中近東が飢饉や砂漠化などで環境劣化が始まると、豊かなナイル川の生産物を求めて、容易に他民族が侵入してくることがある、ということが変わらないことです。また、聖書に出てくるヤコブの子ヨセフが、エジプトの宰相に出世し、カナンの地で飢饉に遭遇していた一族郎党を、呼び寄せる話がありますが、これもエジプトは近隣諸国からは、農業の豊かな、飢饉のときには最後の砦だったのでしょう。】
   
   それでは、オシリスの出発した故郷はどこなのでしょうか。それも神話の中にあります。
   ただその前に。
  
  I  こうした、神話から歴史を読み解くというのは、どこまで信憑性があるのか、を検証するために、ここでひとつの例を見てみましょう。ピーター・ジェイムズ=ニック・ソープ「
古代文明の謎はどこまで解けたのか」によれば、
   1979年に発掘されたクノッソスの、大邸宅の地下室で、甕の中から子供の人骨が、大量に発見されました。よく調査すると、明らかに食用に供されたような形跡がありました。そこでこれは、毎年14人づつアテナイから、怪物ミノタウロスに奉げられた、少年少女の遺骸ではないか、という推測がなされました。これは神話が、実在の事件であったかも知れない、可能性を示している事例です。(そのミノタウロスの正体は何なのか、調べてみたいですね。)
   また、ウクライナでは前4世紀のマウンドから、「アマゾン族」の墓と見られるものが、多数発見されたことにより、女戦士のアマゾン伝説が、これも事実に基づく可能性が強まりました。このような事例を見ると、神話や伝説というのは、多くの場合歴史的事実から生まれてくる可能性が充分あり、それが考古学的にも確かめられうる時代に、入ったのではないでしょうか。
 
  J  さて、エジプト神話によれば、神々たちの物語の始まりは、最古の混沌としたヌンの水から出ています。このヌンの水はナイルの水ともいわれますが、一方では「ヌンは日の出る海」つまり東にある海と見られていました。そこでこの前6000−4000年の時代に、そのモデルになる「日の出る東の海」なるものを求めた場合、どこかにそのような豊かな海があるのでしょうか。そこで、ひとつの候補地として、中央アジア一帯の、現在は砂漠や草原、いくつかの湖が飛びとびに存在する地帯、を挙げることができます。新石器時代の中頃まで、ここには黒海からカスピ海、アラル海、そしてバルハシ海に至る広大な、地中海以上の大きさの内海がありました。この沿岸は豊かな水と、農業生産や遊牧により、地上の楽園のような、住みやすい環境にあったと見られます。

      
  K  ところが、この沿岸部は前6200−5800年の頃に、ローレンタイド氷床の崩壊による海面の急上昇、前5600年頃に起きた地中海から黒海への、海水の大落下による黒海海面の水位上昇による激変、を繰り返して、その後の急激な乾燥化、湖水の消滅、砂漠化により、水資源を求めての部族衝突などが起こりました。そこで、それらの災厄を逃れようとした多くの種族が、ひとつは西へ向かってヨーロッパに到達し、「インド・ヨーロッパ祖語族」として、家父長制社会の規範を保ちつつ侵入し、また一方の種族は前4000年紀に、イラン高原北部へ移動して来ました。やがてこのイラン高原からは、いくつかに分離し、その一部はインダス河上流へ、一部はナイル川へ移動を始めたと見られています。
   
   (注)海洋地質学者ウイリアム・ライアンとウオルター・ピットマン共著(
戸田裕之訳・集英社)による「ノアの洪水」によれば、黒海底から採取された貝殻の、炭素12/14比率測定によるAMS分析で、黒海が前5560−5630年(±50)に、破滅的な洪水が発生したことが判明しました。淡水の黒海に巨大な量の海水が奔流し、その重力で海底の貝類が一挙に、死滅したことが明らかとなったのです。それまでの黒海沿岸は、小乾燥期に入って、広大な森林と緑地が徐々に後退しつつあったので、人間は黒海沿岸に集中し、農業や交易の文化を発展させていました。そうした中で、地中海からの突然の決壊(ボスポラス)によって、海水がなだれ込んだのですが、その量は1日15cmの水位上昇、2年後には100m!に達しました。(この増水時間差があることが、舟を造ったり、脱出を可能としたのでしょう)このため沿岸住民は、先を争って脱出を図ったのではないかと、推測されます。洪水の150年後に、突然バルカン半島にヴィンチャ族が現れ、一方西ヨーロッパ全域には、LBK(リネアルバンドケラミク)族(線状文様陶器族)が侵入していった考古学遺跡がみられます。いずれも従前の遺跡よりも、遥かに文化的に優れた遺跡です。また南のイラン高原を越えて、セム族・ウパイド人がメソポタミアへ、トルコを越えてエジプト人がナイルデルタへ向かった、とされています。この黒海(を含む大地中海域)における大破局が、シュメールの「ギルガメシュ叙事詩」にある大洪水伝説の原型であり、後代に聖書に取り入れられた「ノアの洪水」ではないか、と推論しています。
  
  L  その黒海から脱出してきた種族が、イラン高原で東西に分離したということの、根拠として挙げられるのは、「インド人の人種的類縁関係」によります。インダス人は地中海人種であり、一方古代エジプト人は、地中海人種を機軸に、ニグロとの混血とされているのがひとつです。第2には、両人種に共通した容血性疾患の遺伝病に起因する、「ソラマメ食用のタブー」があり、第3に、モヘンジョダロの物差しと、古代エジプトのロイヤルキュービットの、度量衡の一致、第4に、「太陽崇拝」「蓮華(ロータス)崇拝」「牛の神聖視」「地母神の信仰」「蛇の神格化」「西方浄土思想」「冥界の川の渡し舟」「僧侶の断髪」、そして最後に「インダスのトークンとヒエログリフの類似」などがあります。(
以上J〜Lの項、石上玄一郎「ヌンの海から来た人々」を参考に)

  M  こうして、大地中海を追われ、イラン高原に別れを告げて、エジプトに入ってきた一つの種族が、オシリス・イシス王朝を打ちたてました。この王朝は、ヨーロッパへ向かった種族(
マルタ島やゴーゾ島で新石器時代の石造神殿をつくり、中には50トンに及ぶ石材を利用しています。)と同じく、石造建設に長けているばかりか、霊界の神ラーと再生の宗教を持ち込んで、それまでの「洗骨葬」か、カニバリズム(食人習)と見られる慣習を、5体満足なまま包帯で巻きミイラにする「伸展葬」を導入しました。また、軍を組織し、各部隊に動物の図柄を掲げさせ(これがその後のエジプト各都市の守護神になったとも見られます。)周辺への遠征や国内統一を推し進めたのでしょう。
  
    ところがそうしたある時、とてつもない災害がエジプトを始め、中近東全域を襲ったのです。これがオシリスの弟と言われるセトにまつわる伝説です。 


  

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  【閑話休題】
   古代エジプトの言語であるヒエログリフは、絵文字に加え、表音と表意文字の要素を組み合わせた、美しい言葉として知られています。これは伝説ではトート神が創造し、人民に教えたとされていますが、その発生の起源は、未だ明らかではありません。
   世界に何千とある言語は、17の主要言語に分類され(
ジョゼフ・グリーンバーグ)、前13000年頃に遡ると、ノストラ祖語とデネ・シナ・カフカス祖語の2つに収斂され(ホルガー・ペーゼルセン)、更に前4−5万年頃まで遡ると、全てを包含する世界祖語に到達する(メリット・ルーレン)という説があります。(その頃が聖書のバベルの塔建設の時代だったのでしょう。)
   シュマント・ベッセラトは、前8000〜6000年の頃の、中近東などで見つかった粘土製遺物に、書かれた文様=単純トークンが、前4400年頃の神殿などの登場による、補完型トークンに発展し、そこから文字が生まれてきた、という説を唱えました。エジプトにおいても、前4000年になる前に、トークンからヒエログリフが生まれ、文法化されていったと考えられます。
   しかし、こうした発展段階の中間部分がないので、「ヒエログリフという文字体系が、エジプト以外の場所で考案され、そのほぼ完成した形が、エジプトに伝わったのだとする考え方も、根強く存在する」(
近藤二郎「エジプトの考古学」)という説もあります。
   こうしたヒエログリフに限らず、先史時代や石器時代などで、エジプトに謎とされることが多いのは、発掘されるものは数多いとしても、こうした古い時代のものは、意外と少ないことに理由があります。その原因は何といっても、毎年のナイル川の増水や、時には洪水(
前12500年頃の水位の22m一挙上昇の大洪水説や、〜前6000までの断続的大洪水などの説)などで、主要な遺跡が押し流されたとする考え方や、新石器時代の出土品などは、遊牧民の野営跡にしか過ぎず、そんな中では文明の遺物は出るわけがない、といった見方もあります。
   そこから、「古代エジプト文明の成立以前に、偉大な文明が栄えていたと、考えたい人が多い。しかし出土する証拠品はすべて、各王朝に属するものばかりである。考古学的な裏づけのないところで、別の文明を探す必要があるのだろうか。」(
ザヒ・ハワス文「ピラミッド」アルベルト・シリオッテイ著)とするのは、発掘調査の限界を先に設けてしまうようで、ちょっと残念ですね。
   現に、前4000年紀に始まった、南部のナカダ文化期は、それまでの風習とは違う、「副葬品を多数伴う厚葬」を導入し、前3600年からのナカダU期はアビドスからナカダにかけての南部で伸展し、ナカダVではほぼエジプト全土に拡大し、北部の中心ブトではナカダ特有の土器が99%を占めました。これは王朝成立以前の時代で、すでにこの、前3100年期以前には、エジプトは統一されていた様相が、推測できるようです。とすれば、ナルメルパレットに出てくる戦闘は、上下エジプト統一戦争ではなく、明らかにメソポタミア侵攻と見てもよいのではないでしょうか。
   そのナルメルパレットに描かれている、長い首を交差した動物の像ですが、これは先王朝時代のメソポタミアのウルク期に、一般に通用したシンボルだったという説(
オーストラリアのキュリカン「地中海のフェニキア人」)の他に、ベルリンのペルガモン博物館にある、「復元されたイシュタル門」に、馬と並べて描かれた首長獣(聖獣ムシュフシュ)と、大変良く似ていて、メソポタミア地方で古代には実在したが、今では絶滅した動物を、遠征で捕獲した業績として、描いたのではないでしょうか。
  
   (そしてこのナカダU期に出土の彩文土器には、ピラミッドを思わせる三角の文様が、動物の絵をはさんで、5−10個見られます。さらにエジプトの古代名である、「ケメト」のヒエログリフは、3つのピラミッドを横にした文字から始まるというのは、考え過ぎでしょうか。)