15章.罰として40年を荒地で過ごす民  民数記1〜15 

                                      

 続いて、モーセが民を率いてカナンへ攻め入るまでの歴史を綴った、民数記の内容を見てゆこう。

 まず最初の1章では、エジプトを出た翌年、各部族の中から戦争に出れる20歳以上の男子を数えさせたところから始まる。実に603,500人だった。しかしこの中に、レビびとだけは数えなかった。レビびとは「あかしの幕屋の務めを守らなければならない。」存在だったのだ。
 さて、この60万人をどう読むか。いくらなんでも男子の戦闘員60万の数は誇大だろう。エジプトを出立後40年が過ぎて、ミディアン人を攻めたときには12,000人の軍(31章)と書かれている。とすれば、この砂漠を放浪していたときは10%の6万人どころか、1%の6千人でも多いのではないか。民族全体ではせいぜい23万人程度が限界ではなかろうか。
 
 またヤハウェ神は、エジプトを出て翌年には、早や戦争を想定して、軍団を編成させようとしている。どうも出エジプトの目的というのは、エジプトで2流市民に甘んじていたイスラエルの民を戦闘要員として調達し、カナン地区に「ヤハウェ神」へ忠実な王国を建設することにある、ということか。

 
 3章では、主は言われた「レビの部族に会見の幕屋の働きをさせなさい。アロンとその子に祭司の職
を守らせ、務めをさせるのにレビびとを与える。他の人が(幕屋に)近づけば、殺される。」レビびとの数22,000人とある。また4章では、レビの中で、コハテの子たちの務めは、幕屋の進む時の処理、あかしの箱に垂れ幕を覆い、その上に「じゅごん」の皮をかけ、その上に総青色の布をうちかけ、環にさおを差し入れる。・・ほかにゲルションびとの子たちの務め、・・メラリの子たちの務め・・が続く。

 砂漠の中を流浪する一団なのに、「ジュゴンの皮をかけさせて」、というのはいかにもぜいたく品のようだ。たぶんエジプトで略奪したものだろう。だがこの皮には、なにか特別の働きか、効能があるのだろうか。


 5章は、「らい病人、流出のあるもの、死体に触れて汚れたものは、宿営の外に出しなさい。」また、人の妻が道ならぬ事をしたのかどうか疑われる時は、のろいの苦い水を飲ませ、誓わせて『アアメン、アアメン』と言わなければならない。他の男と寝ていなければその水は害を与えないが、寝ていれば、そののろいの水は女のうちに入って苦くなり、その腹は膨れ、腿はやせて、その女は民のうちの呪いとなるであろう。・・という不思議な話しが出てくる。

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ここで唐突にも、アアメンが初めて出てくる。この言葉の語源と意味はよく分からない。不実な行為をしているものに、呪いの水を飲ませ、正邪を判定する時に、当事者に叫ばせる言葉である。真実を明らかにしてくれる正義の神への呼びかけか、それともその言葉自体が「呪いの言葉」なのか。その意味合いは、誓いの言葉とともに、「神よ(助けたまえ)」と続くのか「悪魔よ(去れ)」と続くのか。いづれにしろ、そうした意味合いではなかろうか。

そこで、このアーメンだが、これと同じものに、エジプトでアテン神と対立した、呪うべき仇敵=アメン神が存在する。もしアテン信者がいたとすると、彼らは何かのときには、「アーメンよ、呪われ」といった言葉を吐くのではなかろうか。これについては、後段で詳述。  ●

 さて、7章では幕屋を立て終わり、油を注いで聖別した日に、イスラエルの司と父祖の家の長たちは
主に捧げ物をするのだが、それが12日間続いた。そしてモーセは、主の声が、あかしの箱の上、ケルビムの間から自分に語る」のを聞いた。この言葉からすると、アークはやはりなんらかの通信機器ではなかろうか。

 シナイ山から離れて荒野に向かうときには、ヤハウェとの交流手段として、あかしの箱が利用されるようになった。この箱を取り巻いて、幕屋が立てられ、それが神殿の代わりをしていた。司祭やレビびとはその幕屋の中で、ヤハウェに生贄を捧げ、そしてあかしの箱から、モーセのように主の命令を聞くことになった。また、時には幕屋全体を煙が覆い、そのときを、ヤハウェの栄光が満ちた、と表現するように、それは直接主が民に臨むときであり、ヤハウェの姿が見られないように、濃い煙が立ち込めた。もしかしたら、このアークは通信機器であると同時に、何らかの煙発生装置も兼ねていて、ヤハウェが遠隔操作でまず煙を発生させ、それを目印に神が臨在したとして神官が近づき、それからやおら音声を発して、民とコミュニケ―ションをとったのではないか。

 また8章では、「アロンはレビびとをイスラエルの人々の捧げる揺祭として、ヤハウェの前にささげなければならない。レビびとをわたしのものとしなければならない。これはイスラエルの人々が、聖所に近づいて、禍いの起こることのないようにするためである。レビ人でも2549歳のものに限る。」

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レビの部族に「神の世話係」として祭司と幕屋を任せるのは理解できる。だが、そのレビの部族は、神の持ち物で、イスラエルの部族同士の社会関係から切り離して、神に捧げものとして、神の(自由に扱える)専属、直轄とするというのは、どういうことだろうか。イスラエルの民を神に近づけず、神の幕屋の傍に近づけないために、レビびとを置き、そのレビびとにはイスラエルの民は接触してはならない、ということだろう。これはどうも、神の姿やその様子を、万が一にも民に見られないように、隔離させるための、人垣もしくはガードマンではないか。それでレビびとには、勤めを果たすロボットのような役割しか与えられず、幕屋の中のことは他言を厳しく禁じられている。このレビ人たちというのは、ひょっとするとロボトミーのようにされていて、神から思考力も奪われてはいないか。  ●

 10章では「銀のラッパ」を2本作らせ、会衆を集めるのに使った、とある。モーセは妻の父、ミデヤ
ンびとリウエルの子ホバブに言った「わたしたちは、かって主がおまえたちに与えると約束した所に向かっています。一緒においで下さい。」だが、ホバブは断った。
 そこでモーセは「どうかわたしたちを見捨てないで下さい。あなたはわたしたちが荒野のどこに宿営すべきかをご存知ですから、わたしたちの目になって下さい。」

 ● ミデアン人である舅の息子が、ここでは神に代わって導いてくれるかの如き存在として、表現されている。だが、モーセが助力を依頼したのに、舅の息子が断っているのは、「約束の土地へ向かう」ところに問題があり、彼らはカナンへ攻め込むことに反対の立場だということだ。このことが原因なのか、25章では神が「ミデアン人を撃て、お前たちを惑わしたからだ」、と言っている。そして31章ではミデアン人を残虐に、皆殺しにしているのだが、こうしたイスラエル民族の残虐さを、焚き付け、後押ししているのがヤハウェなのだ。 ●


 そして一方では、11章にあるように、「民は災難に会っている人のように、主の耳につぶやいた。」
 ヤハウェは怒りを発し、ヤハウェの火が燃え上がって、宿営の端を焼いた。また多くの人が欲心を起こし、エジプトでは魚も、きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、にんにくも食べた。しかしわれわれの精魂は尽きた。目の前には、マナのほか、何もない。」、そこでヤハウェは激しく怒ったが、モーセはあなたはなぜわたしに悪い仕打ちをされるのか、彼らは泣いて『肉を食べさせよ』と、言っています。わたしひとりでは、この民を負うことができません。わたしには重過ぎます。」と正直に吐露している。
 そこでヤハウェは「身を清めて、明日を待ちなさい。あなたがたは肉を食べる事ができるだろう。」主
の下から風が起こり、海の向こうからうづらを運んできて、宿営の周り1日の行程いっぱいに落ちた。の肉が彼らの歯の間にあって、まだ食べつくさないうちに、ヤハウェは民に向かって怒りを発し、激しい疫病を持って民を撃たれた。欲心を起こした民を、そこに埋めたからである

 ●  ここでもこのヤハウェ神の酷薄な性格が示される。いろいろな食物を食べたい、肉も欲しいと声を上げた民たちに、この神は一端うずらを与えたが、それを食べている途中で食中毒、あるいは毒物にあたったような疫病が発生し、それによって、多くの民が殺されたというのだから、なんとすることが冷酷な仕打ちだろうか。その疫病が、神の仕打ちではなく、自然に発生したものなら、きれいに洗って焼かなかったためだ、と民を責めれるが、この場合は神の意図的な仕打ちだ。と断言する。これだけの目的のない流浪生活では、食事についても文句のひとつも口を突いてでるだろうが、それを根に持ち、忘れた頃に仕返しをするという、この神の「蛇」のような執念深い性格は、なんだろう。やはり基本的には、慈悲心や優しいといった感情を持たないのだ。自分を無条件で崇拝するか、またはそうでないのかで、すべての事柄を判断し、崇拝しないものはすべて老若男女を問わず「絶滅」させる。これには歴史上のすべての暴君も及ばないことで、およそ人間的ではない存在ではないのか。とすると、その正体はやはり爬虫類的な部分を持った、異質な生き物ではなかろうか。  ●

 12章では、モーセはクシの女をめとっていたが、そのクシの女をめとったゆえをもって、ミリアムとアロンはモーセを非難した。彼らは言った「主はただモーセによって語られるのか、われわれによっても語られるのではないのか。」ヤハウェは言う「モーセとわたしは、口ずから語り、謎を使わない。彼はまた、主の形を見るのであるそして、ヤハウェは彼らに向かい怒りを発して去られた。ミリアムはらい病となり、その身は雪のように白くなった。「7日の間、宿営の外で閉じ込めておきなさい。」

 ● モーセの妻はミデアンの祭司の娘ではなかったか。ここではクシ(エチオピア)の女が出てくる。ということは、ミデアンの女は離別したのだろうか。それとも死んだので、再婚したのか。ただ荒野を彷徨していながら、エチオピアの女と知り合うことも出来ないだろうし、モーセもやがて90歳近いだろうし、可能性はない。とすれば、エジプト在住のときに知り合ったか、または既に結婚して第2夫人となっていたのだろうか。しかしエジプトを離れる前からの妻ならば、ここで唐突にこうした結婚への非難が書かれるのもおかしい。
 あるいは10章でミデアンの人たちと物別れをしているが、その影響で夫婦離婚となり、そのためここで再婚したということか。だがこの再婚は、異民族である異教徒の娘との結婚であり、律法にもそむくことで、ミリアムたちが反対し、非難するのが当然だろう。

 またここで明らかにされたのは、モーセを援護するヤハウェ神、その神の形=身体の容姿はモーセだけが見ていると断言されたことである。それは燃えている柴や雲煙の中に存在する神なのだが、その神と毎度遭遇する中で、何度かは直接視認されたということを、神が告白しているのだ。

 ヤハウェがモーセを手放さず、時には自分の権限を一部黙認して与えるように振舞うのは、どうもモーセに対してなんとなく「負い目」を感じているところがある感じだ。その原因は、あるいはこのモーセに「正体を見られている」というところにあるのではないか。ヤハウェが自分の姿を見られるのを極度に恐れているのも、(最も全能の神が姿を見られる云々、ということ自体がおかしな話だが)、こうして見られてしまえばそれが弱みとなる、ということではないのか。

 人間に正体を見られたらそれが弱みとなる、という正体とはいったいどういうものか。いろいろな考え方があるが、可能性として強いのは、その存在自体がとても「(神として)優れたもの」には見えず、人間と比べると「劣等」なものであって、人間が見たら「なんだ、こんなものか」と思ってしまうような存在、ではなかろうか。例えば人間が飼っている家畜やペットに類似したもの、あるいは人間が毛嫌いする「蛇や恐竜や爬虫類」のたぐい。あるいは人間型だが、人間より身体の小さい存在。

 そうした「劣等」な姿をしているが、一方では進歩した科学的テクノロジーを保有し、それを使って人間社会に「神」として、干渉をしているのではないか。 ●


  会衆の弱気にヤハウェは激怒して、イスラエルを滅ぼそうとした。


 民数記13章に入ると、モーセは部下にカナンの地を探らせた。探査者らはネゲブ(砂漠)にのぼって、へブロンまで行った。そこで谷におりて、ぶどうの枝を切り取り、ざくろといちじくを持って帰って、復命した。「そこはまことに乳と蜜の流れている地です。しかしそこには、背の高いアナクの子孫ネピリムを見ました。彼らと比べると、わたしたちはいなごのように見えました。」

  ●  ノアの洪水前の時代に、「神の子」たちは人間の女を妻として、巨人・英雄を生んだが,それがネピリムと呼ばれている。このあとサムエル記上17にはペリシテ人の巨人ゴリアテが出てくるが、彼は身の丈280cmとされている。たぶんそれとよく似たくらいの巨人がこの時代にもいたのだろう。太古の巨人たちの遺伝子は、時々こうして伝えられて残ったのだろうか。 ●

  それを聞いた会衆は声を上げて叫び、泣き明かした。「なにゆえ主はこの地に連れてきて、つるぎに倒れさせ、妻子をえじきとされるのだろうか。わたしたちは一人のかしらを立てて、エジプトに帰ろう。
 そのとき主の栄光が、会見の幕屋から全ての人に現れた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わた
しは疫病を持って、彼らを撃ち滅ぼし、あなたを彼らよりも大いなる強い国民としよう」と言い出したので、モーセは言った「いまもし、あなたがこの民を一人残らず殺されるならば、主は与えると誓った地に、民を導きいれることができないため、荒野で殺したのだ、と言うでしょう。」と神をいさめる!のである。
 そこでヤハウェは「わたしは生きている。わたしの声に聞き従わなかった人々はひとりも、与えると誓った地を見ないであろう。あなたがたは、明日、身をめぐらして紅海の道を荒野へ進みなさい。・・あなたがたは死体となってこの荒野に倒れ、あなたがたの子は40年の間、荒野で羊飼いとなり、あなたがたの不信の罪を負うであろう。」と宣言する。

 こうしてイスラエルの民は、元の木阿弥となって、荒野のほうの道へ戻らされた。それも40年という
長期とされる。いうならば40年の有期刑に処せられたみたいなものである。この神は実に刑罰が厳しい。
 カナンの地にいるネピリムがいったいどれだけいて、どう撃ち破るかの相談もないまま、ただ民の一部が感情的に泣いたことをもって、民へのこの刑罰だ。それも最初の刑罰は、この民を疫病で滅ぼすつもりだった。それがモーゼの説教で、方針を翻したのだが、モーゼも、民と神、双方の勝手な言い分には、ほとほと手を焼いたのではないか。

 もっとも巨人族がはびこっていたことを復命した者たちは、神によって、疫病にかかり殺された、とあ
る。神にとって腹立たしい存在は、有無を言わさずこの世から抹消する方針なのだろう。ここまで人間の生命を虫けらのように取り扱いするヤハウェを見て、モーセはそれが「神」などではなく、「恐るべき魔法を使う悪魔」なのだと、しかもその魔法には逆らえないのだと、そろそろ気付いたのではなかろうか。

 15章で、主はモーセに言った「わたしの与えて住まわせる地に行って、主に火祭を捧げる時、牛また
は羊を犠牲としてささげ、主に香ばしいかおりとするとき、小羊一頭ごとに、麦粉1エバの1/10に、油1ヒンの1/4を混ぜたものを、素祭として捧げ、ぶどう酒1ヒンの1/4を、灌祭として捧げなければならない(捧げ物の内容を詳細に指定していく)・・」 
 神々は、あまたこの地球上に生まれ、多くの民に拝されてきたが、その神の側から捧げものを事細かに
指定し、その焼き加減や、携わる人々までも事細かに要求するような「わがままな」神というのは、他にいただろうか。『小羊一頭ごとに、麦粉1エバの1/10に、油1ヒンの1/4を混ぜたものを、素祭として捧げ、ぶどう酒1ヒンの1/4を、灌祭として捧げなければならない。・・これが延々と続く・』そしてそれが「しく」なされなかった場合、間違えた人間は「民のうちから断たれなければならない」なんとも厳しい掟であり、要求である。これだけの要求を受け入れて、その手足となって仕えても、それに見合った「得るもの」はあったのだろうか。

 こうしたヤハウェからの要求に対し、見返りに得たものは、荒野の砂と得体の知れぬマナだけだ。これ
では、運悪く、底知れない恐怖で民を縛り付ける悪魔にとりつかれたのと、変わらないのではないか。その証拠が早速出てくる。

 安息日にたきぎを集める人がいた。ヤハウェは言った「全会衆は彼を石で撃ち殺さなければならない」そこで全会衆は彼を宿営の外に連れ出し、彼を石で撃ち殺し、主がモーセに命じられたようにした。・・・まるで連合赤軍の集団リンチ殺人そのものだ。身体を休めるための安息日を守る、という掟が今度は身体を奪う根拠となる。これを本末転倒というのではないか。

 こうした倫理規定はあまりにも常軌を逸していることから、続いての16章では、レビのコハテの子のイズハルの子コラと仲間が、250とともに、モーセに逆らって言った。

 あなたがた(モーセたち)は分を超えている。どうして聖なる主の会衆の上に立つのか。」

 モーセは言った。「神はレビの子たちを近づけられた。なおその上に、祭司となることを求めるのか。」
 コラの仲間のダタンとアビラムもモーセに「あなたは乳と蜜の流れる地から導き出して、荒野でわたしたちを殺そうとしている。その上、わたしたちに君臨しようとしている。」と言った。


 そこでモーセは一緒にヤハウェの前に出るように言った。ヤハウェは逆らったものたちの天幕を離れるように言った。この人たちは妻子、および幼児と一緒に天幕の入口にたった。モーセは「地が口を開いて、これらの人々を のみつくして、生きながら陰府に下らせるならば、この人たちが主を侮ったことを知るだろう。」と語った。するとそのとき、「彼らの下の土地が裂け、地は口を開いて、彼らとその家族、ならびにコラに属するすべての人々と、すべての所有物を飲みつくした。また主のもとから火が出て、250人を焼き尽くした。」

 その翌日、会衆はモーセとアロンにつぶやいて「あなたがたは主の民を殺しました。」そこでヤハウェは「あなたがたはこの会衆を離れなさい、ただちに滅ぼそう。」疫病が民に広がり、死んだものは14,700人だった。

 ● なんとも凄まじい民の虐殺のオンパレードである。コラや会衆が言ったことは、15章をみると、そんなに非難されるものではない。ヤハウェの行きすぎた行為を正そうとしているのだ。ところがそれをモーセやヤハウェへの反逆と見て、主導者を始め、その妻子や幼子に至るまで、断裂のあった谷間に投げ込み、土を盛って生き埋めとした(と解釈できる)。また虐殺を咎める声に逆上して、民衆に誰彼となく疫病の菌をばらまき、大勢を殺したのである。

 これは、ヤハウェが主導した行為であり、彼が直接に手を下している。私に逆らうと、こうなるぞ、というみせしめであり、不満を口にすると命がないぞ、しかも家族まるごと殺すぞ、という論理なのだ。なんともはや、想像を絶する報復であり、血まみれの支配ではないか。こうまでしないと、尊崇してもらえないのか。これで主なる神を拝んだとしても、それは虐殺の恐怖から逃れるための儀式であり、民衆の中では、「神に対する、心からの尊敬と崇拝」というのは存在できない。


 エジプトやカナンから遠く離れた、人里のない荒野の真っ只中で、血も涙もない大量虐殺行為を脅しにして、自分に対して無条件の絶対忠誠を誓わせるものがいた。もしこれをハリウッドで超大作映画化をするならば、こうしたヤハウェの姿というのは、まさしく大悪魔の頭目そのものとして描かれるのではないか。

 冷静に、客観的に検証すると、この悪魔の頭目というのが、「主なる神」といわれるものの実体ではなかろうか。そうすると、後段で出てくる他民族への、ジェノザイド(民族絶滅)とも見えるすさまじい虐殺が、なぜ平気で行われるのかが理解できる。 ●


  そしてヤハウェはアロンに言った「あなたがたは聖所と祭壇の務めを守らなければならない。幕屋のも
ろもろの働きをしなければならない。あなたとあなたの子達と、レビの部族のもの以外で、他の人で近づくものは殺されるだろう。・・牛の初子、羊やヤギの初子は聖なるもので、その血を祭壇に注ぎかけ、その脂肪を焼いて火祭とし、香ばしい香として、主に捧げなければならない。その肉はあなたに帰する。供え物はみな、あなたとあなたの子たちに帰するだろう。・・レビびとだけが会見の幕屋の働きをしなければならない。

 ● ここでもヤハウェは執拗に、捧げものの扱い方を指定している。特に、牛や羊・ヤギなどの初子にはこだわり、その血を求め、その脂肪を求める。そして香ばしいかおりに執着する。これは実際には、この血を飲み、この脂肪を味わい、その香りに充足するものが、そこにいるのではないか。ただしそれ以外の肉の部分は、焼いたものでも、そのままお下がりとして司祭たちに分け与えているのは、そこにいるものにとって、硬すぎるということではないか。

  すなわちそこにいるものは、人間とは違って、食料摂取の上では、歯や反芻器官が退化し、栄養そのものを飲み込むような食事しかできない生物ではなかろうか。
 そして、その食事風景を絶対に、民衆に見られたり、知られたりしてはならないために、近づく人間も限定し、それ以外の人間が近づかないように、『殺す』と脅しているのではないか。 ●


  カデシュ・バルネアでミリアムが死んだ。そのころ水がなかったので、会衆は「われわれをここで死なせようとするのですか、いちじくも、ぶどうもなく、ざくろも、飲む水もありません。」
 ヤハウェは「あなたはつえをとり、アロンとともに会衆を集め、その目の前で岩に命じて水を出させな
さい」そこでモーセは「そむく人よ、聞きなさい。われわれがあなたがたのために、この岩から水を出さなければならないのであろうか。つえで岩を2度打つと、水がたくさん沸き出でた。
 そのときヤハウェはモーセとアロンに言った『あなたがたは私を信じないで、イスラエルの人の前に私の聖
なることを現さなかったから、この会衆を私が彼らに与えた地に、導き入れることができないであろう。
  これがメリバの水である。イスラエルの人々はここで主と争ったが、主は自分の聖なることを彼らのうちに現された。   


 モーセはエドムの王に使者を出して「わたしたちは年ひさしくエジプトに住んでいましたが、・・主はわたしたちの声を聞き、ひとりの天の使いをつかわして、わたしたちをエジプトから導き出されました。・・わたしたちにあなたの国を通らせてください。」

 しかしエドムの王は申し出を拒否したので、イスラエルはほかに向かった。
 途中のエドムの国境に近いホル山で、ヤハウェはモーセとアロンに言った「アロンはその民に連ならな
ければならない。彼はイスラエルに与えた地に入ることはできない。メリバの水で、わたしの言葉にそむいたからである。山に登り、アロンの服を脱がせ、その子エレアゼルに着せなさい。

 モーセは主が命じられたとおりに、連れ立ってホル山に登り、アロンに衣服を脱がせ、その子エレアザルに着せた。アロンはその山の頂で死んだ。そしてモーセとエレアザルは山を下ったが、全会衆がアロンの死んだのを見たとき、30日の間アロンのために泣いた。

 この章は重大な内容を秘めている。水を求める民の声に対して、ヤハウェは『岩に命じて水を出させなさい』とモーセたちに言ったのだが、モーセたちは「なんで、おまえたちのために水をださせなければならんのか」と言って、岩をたたいた。この行為が、いたくヤハウェのプライドを傷つけたのである。

 「岩までもが、主の命令により水を出す」という奇跡を見せることで、民に主の力と偉大さを印象付けるつもりだった。それがモーセたちにより、いやいやながらの行為でされたことが、折角の見せ場をなくしてしまった。「主はそういうが、しかしこの見せ場そのものはたいしたものでもない、要は水を飲ませればよい」とモーセたちは解釈したのだろう。これがヤハウェとモーセたちに、決定的な亀裂を生じさせた。ヤハウェにしてみれば、自分の言った言葉は、勝手に解釈せずにそのまま実行すべきなのだが、この二人の指導者はその筋書きを自分たちで勝手にねじまげてしまった、と見たのだ。  
  
  その代償は、「死」である。『アロンは先祖の中へ入れ』という言葉で、アロンに死の判決を言い渡し、祭司長の服を脱がせ、ひとりで山頂へ登らせた。『死んだ』とあるのは、自死させたのか、それとも殺したのかのいずれかであろう。表現はオブラートに包み込んだように、優しく書かれているものの、駒として用がなくなったものには、突然に過ぎ去った過去の「罪」を持ち出して、問答無用に死刑判決を言い渡すのが、このヤハウェなるものである。祭司長の服を脱がされ、裸同然で山頂へひとりで追いやられるアロン。彼が、このイスラエル民族の出エジプト事業に携わってからこのかた、どれだけの苦労をして、事業に貢献しただろうか。その中には過ちもあった(子牛鋳造)だろうが、しかしその死の判決の理由は、主の見せ場を阻害した、ということだとは、アロンも絶句したことだろう。貢献したものに対しての、暖かい思いやりもなく、感謝もなく、ただプライドを傷つけたことの方が重要だ、というこのヤハウェはいったい何者なのか。

 そしてモーセもやがて、お払い箱となるときが迫ってきているのだ。それも同じ理由から。




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