16章.狂気の支配を確立したヤハウェの矛先は 民数記後半・申命記1〜21
ネゲブに住んでいたカナンびとアラデの王は、イスラエルが来ると聞いて、攻撃し、数人を捕虜にした。
そこでイスラエルは、そのカナンびととその町々を、ことごとく滅ぼした。民は紅海の道を通って、エドムの地を回ろうとしたが、その道に耐え難くなった。「なぜ、荒野で死なせようとするのですか、ここには食物もなく、水もありません。」
そこでヤハウェは火の蛇を民に送った。へびは民をかんだので、多くのものが死んだ。モーセは青銅で蛇を造り、さおの上に掛けておいた。へびにかまれたものはその青銅の蛇を仰いで生きた。
イスラエルはゼレデの谷からアルノン川を越えて、アモリびとの王シホンに使いして「あんたの国を通らせてください・・」
王は拒否して戦いに出たので、イスラエルは撃ち破り、彼の地を占領した。都のヘシュボンはモアブの王の都だったが、アモリの王が奪い取ったもので、そこをイスラエルは占領し、住み着いた。
さらに、パシャンの道に上っていったが、パシャンの王オグは民を率いて戦おうとして迎えた。そこで彼とその子と、すべての民を、ひとり残らず撃ち殺して、その地を占領した。
いよいよ荒野を後にして、カナンの地へ打って出るイスラエルの民である。最初にネゲブで勝利したが、その直後、また荒野を迂回したときに、民から「不満のつぶやき」が出たために、民に対して火の蛇が襲い、民の大勢が咬まれて死ぬ事態が発生する。
この火の蛇の正体はなんだろうか。火の蛇とは、火のように鮮やかで、燃える色をした種類の蛇で、それが大発生し、宿営にいた民の一部で咬まれる被害にあったということだろうか。それとも何らかの理由で、聖櫃から炎が出て、それが宿営を乱舞し、それに撃たれた人が火傷を負って、亡くなったということか。この聖櫃の上にある2つのケルビムの間から、炎が出て人が焼き殺される事件は他に起きている。(レビ記10章)
それでは、咬まれたものが、竿の上の、モーセが青銅で造った火の蛇を仰ぐと、助かるというのは何故か。生き物の蛇なら、解毒剤を処方するしかないだろうし、燃える火そのものなら、自力で治癒するまで待つしかないだろう。その治癒期間に、毎日蛇の像を仰いで、完治を祈ったということか。
エリコの近くのモアブの平野に宿営すると、モアブの王バラクはイスラエルを恐れた。彼はアンモンびとの国、ユーフラテス川のほとりのペトルに使いして、(呪術に長けた)べオルの子バラムを招こうとした。モアブとミデアンの長老たちが礼物を持ってバラムを訪れた。ときに神はバラムに臨み、「あなたは彼らと一緒にいってはならない、またイスラエルの民をのろってはならない」と告げる。
その後何度も誘われたので、とうとうバラムは出掛けた。その途中の道で、主の使いが、手に抜き身の剣を持って立ちふさがっているのが見えた。そして、「行ってバラクに、主が告げることのみを話しなさい」と伝える。
バラムはバラクを連れて、荒野を見下ろすペオルの頂に行った。そしてバラクに7つの祭壇と、それぞれ7匹の雄牛と雄羊を用意させた。そこでバラムはイスラエルを祝福する託宣を述べた。バラムは3度祝福し、託宣を述べて、イスラエルが近隣を征服し、強大になってゆくことを予言する。
イスラエルはシッテムに留まっていたが、民はモアブの娘たちと、淫らな事をし始めた。娘たちが神々に犠牲をささげるときに、民を招くと一緒に食べ、娘たちの神バアルを拝んだ。主は怒りを発して、「民の首領をことごとく捕らえ、処刑しなさい」、とモーセに告げたので、モーセは「配下の者どもで、ペオルのバアルに従ったものを殺しなさい。」と布告する。
そしてモーセとイスラエルの会衆が幕屋の前で泣いているとき、シメオン人の一族の司のジムリが、ミデアンの一族の頭ツルの娘コズビを連れてやってきた。そこでエレアゼルの子ピネハスがそのイスラエル人とミデアンの女をやりで突き殺した。すると疫病が広がるのが止んだ。このとき死んだものは24,000人。
ヤハウェは言った「ミデアン人を撃ちなさい。彼らはたくらみを持ってあなたがたを悩まし、ペオルの(バアルの)事と、ミデアンの娘の事で、あなたがたを惑わしたからである。」
ここで、ミデアンが次のターゲットにされる。ペオルにあるモアブの神バアルを拝んだことは、ミデアン人にはかかわりがない。また、ペオルの頂での出来事は、モアブの王が設営したことで、これもミデアン人には関係がない。唯一関わるとすれば、イスラエルの会衆のいるところへ連れられていったミデアンの娘だが、一体彼女が何をしたというのか。逆に理由もなくピネハスに槍で殺されるという仕打ちにあったので、ミデアン人が怒るのは分かるが、なんでこのヤハウェがミデアン人に怒る理由があるのか。
被害者を加害者に見立てて、それに復讐するというのは、まったく正義はそこにはなく、これこそ「やくざ」のいいがかりではなかろうか。それで民を戦闘に狩り立てているのだが、このような不正義な理由でも、疑問には思わずに、容易に民が命令どおり動くというのは、「マインドコントロール」されている状態そのものである。このマインドコントロールこそ、エジプトから連れ出して、砂漠に民を誘導し、訓練することの、本当の『目的』だったのだろう。もっとも、疑問を口にしたら、すぐに家族もろとも撃ち殺されることになるのだが。
続いて、イスラエルの20歳以上で、戦争の出来るものを数える。601,730人となった。ヤハウェは言った「これらの人々に、その数に従って、地を分け与え、嗣業とさせなさい。」
すると、ゼロペハデの娘たちが訴えてきた。男の子がないからといって、氏族から削らないで下さい。」ヤハウェは言った「男の子が無い時は娘に、娘も無い時は兄弟に、・・その嗣業を渡しなさい。」
そして、モーセがいなくなったときのために、ヌンの子ヨシュアに、職を任じるため、権威を分け与えた。
さらに、ヤハウェはモーセに言った「あなたがたは香ばしいかおりとしてわたしにささげる火祭、すなわちわたしの供え物、わたしの食物を定の時に、わたしにささげることを怠ってはならない。」
そこで、捧げ物の詳しいリストの羅列が始まってゆく。
28章の冒頭に出てきたヤハウェの言葉、『私の供え物、私の食物』で、ようやくこの生き物の本音が出てきた。やはり火祭に捧げられるものの中で、犠牲の動物の血と脂身は、この生き物の食べ物なのだ。それを毎日決められた数を、決められた方法で、捧げ続けなさいと命じている。食物ならば、毎日必要だろう。それを食べるに際しては、人間に見られないことが絶対の条件で、そのために奉仕して世話をする専属のガードマン兼召使いが、レビ人(モーセもアロンもその一族)であった。しかも姿を見たものは「死ぬ」ということは、即ち「殺す」ということで、そのために幕屋のうちに現れるときは常に雲が立ち込めて、見られることがないように気づかっている。
そして、この狂気の悪魔に率いられたイスラエルの部族は、いよいよ周辺民族の皆殺しに奔走し始める。
31章では、モーセは言った「主のためミデアン人に復讐しなさい」イスラエルの各部族からそれぞれ千人づつを選び、12,000の武装軍団を構成し、ミデアン人と戦って、5人の王を始め、バラムも含めて、その人々の男子を皆殺した。女たちと子供を捕虜にし、家畜と家財をことごとく奪い取り、町々とその部落をことごとく火で焼いた。
戦場から帰ってきた兵士にモーセは怒り「あなたがたは女たちをみな生かしておいたのか。この子供たちのうちの男の子をみな殺し、また男と寝て男を知った女をみな殺しなさい。男を知らない娘はすべてあなたがたのために生かしておきなさい。」・・いくさびとはおのおの自分のぶんどり物を得た。モーセと祭司エレアザルは、長たちから金を受け取り、主の前に置いた。
ミデアン人はモーセの義父の部族である。その部族を皆殺しにするというのは、いったいどういう神経か。それも理由はミデアンの娘ひとりのことであり、イスラエルに非がある話で、ミデアンには何の落ち度もない。
それに対して、このヤハウェは『私のために復讐せよ』と迫る。このイスラエルの神は峻烈で残酷な性格だが、しかしモーセもまた酷薄な性格ではないか。敵兵を殲滅するのは成り行きにしても、その妻子を捕虜として連れ帰った部隊に対して、男の子と既婚の女は皆殺しにしろ、と命令する。
そしてセックスを経験していない娘を残して、自分たちのために生かして置け、という。生かしておいて、どうするのか。モーセの律法により、他民族の娘を妻にはできないことになっている。兵士たちの慰み者にして、楽しんだ後で殺せ、ということか。
彼らのしたことは、セックスに役立たないものは虐殺して、民族絶滅を図り、その娘たちを弄んだ後に虐殺し、そして全財産を強奪するということだ。古代には限りなく多くの民族戦争があっただろうが、ここまで残虐で、しかも非人間的で、セックスに変質狂的なおぞましい執着を持った軍団が、あっただろうか。全くモラルのかけらもないこの戦争指揮だが、これが「全能の主なる神」によって指導されるとは、「神をも恐れない行為」である。
もともとヤハウェがあなたがたに与えると約束した土地というのは、そこに多くの民族が住んでおり、暮らしているのだ。そこを勝手に「主なるものから与えられた」、といって皆殺しにやってくる部族というのは、なんとも非人間的な、極悪な行為ではないか。戦争には大義名分があって、どちらの言い分が正当か、第3者がみるとおのずと分かる。例えば、先祖伝来の土地を守るというのは大義だが、この場合イスラエルは、住民を皆殺ししながらそれを奪いにくるのだ。これこそ悪魔の仕業ではなかろうか。そうすればその信奉する神というのは、悪魔の親玉に間違いない。
そうした性格の、悪魔の親玉というのは、いったい何者か。この親玉が、イスラエルの民をエジプトから連れ出して、自分の民にする目的というのは、自分に「焼肉の捧げもの」をきちんとしてくれて、自分を崇めてくれて、言いなりになってくれることにある。古代の世界では奇跡に思えることも、現代のように発達した科学力があれば、こうした「神の奇跡」は演出できる。こうして、ケルビムの間から、この部族に勝手な指示を出すというのは、大きな楽しみだろう。
科学技術の進んだ知性体と、それより数段下等なものが遭遇した場合、人間の歴史では下等なものが絶滅させられてきたのは事実だ。しかし神として君臨しながら、下等同士の絶滅戦争を奨励し、その殺戮を楽しむということまではしなかった。
生物には魚類や鳥類、昆虫に爬虫類、ほ乳類など、多彩な種類がある。このうち、知性をもって行動しているのは、ほ乳類の中でも人間や猿など類人猿の高等生物に限られる。イルカやクジラなども知能があって、仲間で通信しているのもあり、また、馬や犬・猫など知能が優れたものもある。こうした知性のあるほ乳類には一貫して共通するものがある。それは、種族の維持繁殖のために、親が子を養育し、保護しようとする本能を持っていることだ。鳥類にも、産んだ卵を孵らそうとする本能があり、孵った雛に餌を運ぶことを、必死にする。ただ、自分の体から生れ出たほ乳類と違って、家族としての行動は少ない。ウミガメなど卵から孵った雛の場合、その親子は識別できない。つまり卵から孵ると、どうしても親子の絆や家族といった構成は望めず、種族としての同調行動や群れを作っての捕食活動はあっても、親子など特別な感情は見られない。
ほ乳類ではなく、爬虫類になるとこの傾向はさらに強まる。ワニなども群れを作ってはいるが、子供を養育する場面はない。そうしたほ乳類とは違う卵生の生物が、もし何かのきっかけで文明化の道を辿りだしたとすると、その生物の社会では、ほ乳類に特有の「親子の情」や「家族に対する親愛の情」といった個別の情愛は発達しなくて、群れの中での力による上下関係だけが支配的になるのではないか。
外見の一部は人間に似ているが、人間性はもちろん、哺乳類に特有の「親子の情」も全くない、それがこのヤハウェであるから、その正体を推測するとすれば、地球上または周辺に存在する少数の生物集団で、進んだ科学・工学力を持っていた、爬虫類から進化した哺乳類ではない生き物の末裔なのだろうか。とすれば、恐竜の時代の生き残りの可能性もあるだろう。
数百年前に、広大な大地に、平和に暮らしている先住民がいた。ある日そこへ、強力な武器を持った人間たちがやって来た。そして欲望のままに、その先住民たちを、女子供に至るまで皆殺しにしてしまい、彼らが住んでいた肥沃な土地を自分たちのものにして、奪いとった。インカしかり、インディアンしかり、この民数記に書かれている極悪な蛮行が、そのまま近現代の地球上で、何度となく繰り返されてきた。その虐殺にお墨付きをあたえたのが、実にこのヤハウェによる行為であり、以後数千年に及ぶ、人類に対する犯罪の手本、免罪符となってきた。それもこれも、このヤハウェとモーセを信仰していたがために起きたことではないか。
33章でも、ヤハウェはくどいほど繰り返す。「ヨルダンを渡って、カナンの地に入る時は、その地の住民をことごとく追い払い、そこに住まわなければならない。追い払わないならば、残しておいたものはとげとなり、いばらとなって、あなた方を悩ますだろう。」
律法を、もう一度確認するために綴られた申命記で、数々の疑問点が膨らんでくる。
この申命記はモーセの述懐で綴られる。1章では、ホレブの山からモアブの地に入ったところで、今までの出来事を回想して民に語った。
多くのイスラエルの民がいるので、その重荷を負いきれなかったこと、そこで民の中に千人・百人・五十人十人の長をおいたこと、カナンへの先遣隊が果物を持ち帰ったこと、そのとき民はアナクの子孫におびえたこと、そこで神がこの世代は約束の地へ入れないと言ったこと。そしてひさしくカデシュ・バルネアにとどまったこと。
また2章では、エサウの地では争わず、モアブも敵視せず、アンモンの子孫も敵視しないように。アルノン川を渡り、ヘシボンの王アモリびとシホンとその国を征服せよ。という方針が示される。そこでわれわれは、そのアモリ人の民を撃ち殺し、すべての町をとり、男も女も子供もすべて滅ぼして、一人も残さなかった。
さらに、3章では、パシャンの王オグ(レパイム・巨人のただひとりの生存者で、その寝台は鉄で、長さ9キュビト=4mあった)を討ち、同じように全ての男女子供を殺しつくした。
イスラエルが進む道に立ちはだかる先住民族たち、それはヘテ・ギルガシ・アモリ・カナン・ペリジ・ヒビ・エブスの7民族だが、それらを殲滅することで、自分たちの居住地を獲得しようというのだ。
それが神がイスラエルの民に贈ったという土地なのだ。この記述だと、神がイスラエルと約束した土地を贈り物にしたのではなく、自分たちで切り取ってゆけ、ということだ。ただその土地を侵略する大義名分として、「神と約束してもらったのだ」、と自分自身に言い含めたのだろう。そうでもしなければ、大勢の人が住んでいるところを、いきなり侵略して虐殺し、財産と土地を奪うというのは、いくら古代の世界でも、周辺民族には一片の理解もされるものではなく、自民族にも大義として理解されないだろう。しかしいくら自分達の神が勧めるのだとはいえ、進路の前にいる民族を絶滅しながら進んで行くこのイスラエル人というのは、残虐極まりない犯罪武装軍団に見えたことだろう。
この3章の後半で、モーセはヤハウェに願って言った。「ヨルダン川を渡って、良い地、良い山、およびレバノンを見ることの出来る様にして下さい。」(つまり延命させて下さいという願いを申し出た。)
しかしヤハウェは「おまえはもはや足りている。ピスガの頂に登り、目を上げて東西南北を望み見よ。おまえはこのヨルダンを渡ることができないからである。」
※ エジプト以来、数々の苦難と試練を乗り越えて、もはやヤハウェの片腕のごとき存在となった、とモーセ自身も自負していただろうが、それでもヤハウェから見れば、使い捨ての駒のひとつにしか評価していないのだ。ヤハウェの言い方は、なんと冷酷なものか。「ご苦労さん」といったニュアンスもなく、ただ裁判の判決のように、「もはや足りておる」という言い方は、まさにイナゴや昆虫に対して何の感情もなく踏むつぶす、そうしたニュアンスを髣髴とさせるものではないか。
モーセの回想は続く。ホレブの山(シナイ山)での神との遭遇、
「山は火で焼けて、その炎は中天に達し、暗黒と雲と濃い雲があった。時に主は火の中からあなた方に、語られたが、あなたがたは言葉の声を聞いたけれども、声ばかりで、何の形も見なかった」
十戒が授けられたこと、偶像をつくったこと、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があろうか。・・・そして主との契約、「十戒」の内容を再度綴ったあと、6章で、「イスラエルよ聞け。あなたは心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛さなければならない。」
「あなたの先祖に向かって与えると誓われた地に、あなたを入らせるとき、あなたが建てたものでない
大きな美しい町々を得させ、あなたが満たしたものでない諸々の良いものを満たした家を得させ、あなたが植えたものでないブドウ畑とオリブの畑を得させるであろう。」
※ あなた方のものではない成果を、与えるという。では、そのもともとの持ち主たちはどうなるのか?詩のような文章で書かれているものの、その意味するところは、恐るべき虐殺と略奪ということではなかろうか。その実体が次に記される。
「主があなたを導きいれ、あなたよりも力のある7つの民を、撃たせられるときは、彼らを全く滅ぼさなければならない。彼らになんの哀れみも示してはならない。」
わたしがきょう命じるこのすべてを、あなたがたは守らなければならない。・・「ヨルダンを渡り、他の民を追い払ったら、その民の祭壇はこなごなに壊し、焼き払い、・・「あなたはがたが安らかに住むようになる時、主が選ばれる一つのところで、燔祭をささげ・・「あなたはほしいだけ肉を食べることが出来るが、血を食べないように・・」そして13章では、「預言者や夢見るものが起こって、他の神々に仕えようと言っても、仕えてはならない。主はあなたがたを試みられるからである。その預言者や夢見るものを殺さなければならない。・・家族が他の神に仕えようと言ったら、その家族を殺さなければならない。・・「町でよこしまな人が、他の神に仕えようといったら、その町に住むものを撃ち殺し、・・」と、律法を厳守するためには、違法者を軒並み殺害して、この世から除去させることを義務づけている。
このあと14章からは、「死んだ人のために自分の身を傷つけてはならない。・・食べることが出来る獣の種類は・・」といった内容が続き、15章では「7年の終わりごとに、隣人に貸した貸主はそれを許さなければならない。・・あなたは多くの国びとに貸すようになり、借りることはないであろう。」といったものが書かれてゆく。17章では「他の神々に仕え、日や月や天の万象を拝むことがあったら、その悪事をおこなった男女を捕らえ、石で撃ち殺し、」と裁きが決められている。
また18章では「他の国の民の憎むべきことを習ってはいけない。占い、易、魔法使、呪文、口寄せ、主は全てこれらのことをするものを憎まれる。」とある。また「主は言われた『おまえのようなひとりの預言者を彼らのために起こして、わたしの言葉をその口に授けよう。』
さらに、『主の名によって語っても、そのことが起こらず、その言葉が「成就」しないときは、それは主の語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに語ったのである。その預言者は殺さなければならない。』
※ユダヤの民が、「イエスを十字架につけよ」、と叫んだのは、こうした言葉によるのだろうか。イエスもこれを意識して、「わたしは律法を廃するためにやってきたのではなく、律法を成就するためにやってきたのである。」と弁明している。
19章に入ると、「他の民を滅ぼしつくして、その町々と家々に住むようになったら、3つの町を指定し、人を殺したものを逃れさせるようにしなければならない。」といった定めが記される。他の民族には慈悲はないが、同じイスラエル人ならば、人殺しを見逃すゆとりがあるのだ。
そして、20章では敵の軍勢と戦うときのはなむけの言葉が語られる。「・・もし穏やかに降伏せず、戦おうとするならば、つるぎをもってそのうちの男をみな撃ち殺さなければならない。ただし、女、子供、家畜およびすべて町にあるもの、ぶんどり物はみな、戦利品として取ることができる。これらの民の町々では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。」
21章では社会生活上の日常的判断の指針が綴られる。
「誰が殺したのかわからない事件では、一番近い町の長老が、雌牛を連れてきて首を折り、・・」「捕虜の中に、美しい女のあるのを見て、それを好み、妻にめとろうとするならば・・」 「人が二人の妻を持ち、一人は愛するもので、一人は気にいらないものであったとき、・・」「わがままで手に負えない子があって・・」
そうした中に興味深い記述がある。
もし人が死にあたる罪を犯して殺され、あなたがそれを木の上にかけるときは、翌朝までその死体を留めておいてはならない。必ずそれをその日のうちに埋めなければならない。木に掛けられた者は神に呪われたものだからである。」
十字架にかけられたイエス・キリストが浮かんでくる。するとイスラエルの律法では、イエスは呪われた存在である、ということになるのか。翌朝まで死体を木にかけておいてはならないという律法に従って、イエスは十字架からその日のうちに降ろされ、墓室に運び込まれている。十字架刑は神から呪われたものだ、という言葉をイエスは当然知っていただろう。すると十字架刑になることを、彼は神との関係でどういうふうに解釈したのだろう
