18章.ヨシュア記でもヤハウェが指導を




  旧約聖書の5書は終わったのだが、引き続きヤハウェの動勢を調べるため、次の「ヨシュア記」を始め、「エゼキエル書」に到るまでの各巻を点検して行く。最初は「ヨシュア記」である。


  この中でもヤハウェが登場し、ヨシュアに、「モーゼに代わりカナンへの道を歩め」と命じる。イスラエルの民が契約の箱を先頭にヨルダンの川に入ると、水がせき止められ、民は乾いたところを渡った。ヨシュアは「生ける神があなたがたのうちに、おいでになるのだ」と断言する。
  契約の箱がヨルダンの川から上がると、川はもとのままに流れかえった。記念に12個の石をとって、宿る場所エリコの東のギルガルにいってそこに据えた。正月10日である。


  ヨシュアはすべてのイスラエル人に、ここで割礼をさせた。荒野を40年歩んでいた時には、割礼は行われなかったからである。正月14日に、過ぎ越しの祭りをエリコの平野で執り行ったが、その翌日から「マナ」は降らなくなった


  ヨシュアがエリコの近くにいるとき、目を上げてみると、一人の人が、抜き身の剣を手に持ち、こちらに向かって立っていたので、「あなたはわれわれを助けるのですか、それとも敵を助けるのですか」と問うと、その人は
  『私は主の軍勢の将として今来たのだ、あなたの足の靴を脱ぎなさい、あなたが立っているところは聖なるところである。』と言い、エリコを降す方策を告げた。

 エリコの町の周りを、毎日ラッパを吹いてめぐり、7日目には7回巡って、「呼ばわりなさい

  ヨシュアが民にそのようにさせると、城の石垣は崩れたので、民は攻め込んで、男も女も、若いものも年老いたものも、牛・羊・ロバに至るまで、ことごとく剣にかけて滅ぼした。「エリコの町を再建する人は、主の前に呪われるだろう。」

  また、アイの町を攻略に出掛けた3千人の部隊が、みじめに敗北して逃げ帰った。ヨシュアが契約の箱の前にひれ伏して嘆くと、ヤハウェは、「民の中に契約を破って、奉納物を盗み、それを自分の所有物にしたものがいる、それを滅ぼさなければ、わたしはあなたがたとともにいない。」と告げたので、ヨシュアは民に「くじ」を引かせた。そしてくじに当たった犯人のアカンが判明すると、彼とその家族をアコルの谷へ連れてゆき、石で撃ち殺して火で焼いた。

 そしてヨシュアは姦計をもって、アイの町を攻略し、12,000人の住民をことごとく滅ぼした


 ギベオンの民衆は、姦計をもって、遠方の国からやってきたと申し出て、安堵するように契約を迫った。
イスラエルの長老はそれを受け入れたが、後日近隣に住んでいる住民と判ったが、そのままとした。
 エルサレムの王アドニゼデクなど5人のアモリ人の王は連合して、ギベオンを攻めた。ヨシュアはギベオ
ンからの救援要請を受けて、援軍を出し、彼らを攻め滅ぼしたが、主が天から大石を降らしたので、雹に打たれて死んだものの方が多かった。また、ヨシュアは「日よ、ギベオンの上に留まれ、月よ、アヤロンの谷にやすらえ」と主に向かって言ったところ、日がおよそ1日の間、中天に留まって没せなかった。れからヨシュアは、マッケダの町、リブナの町、ラキシの町、エグロンの町、ヘブロンの町、デビルの町、さらにカデシ・バルネアからガザまでの国、ゴセンの全地を打ち滅ぼし、その中の民をことごとく撃ち殺した
  
さらに残ったハゾルの王やすべての王が軍勢を率いてきたので、それらを撃ち破り、ハゾルはことごとく滅ぼして、息のあるものは一人も残さなかった。そして火をもって、焼き尽くした。そして、他の土地の王もすべて撃ち殺して、主がイスラエルに約束した土地を、嗣業とした。
 こうしてイスラエルが打ち滅ぼした国と王は全部で33である。しかし主は、まだ156の地が残って
いる、という。

 
イスラエルの民が手にした土地と町のリストなどが綴られ、逃れの町の設定がなされ、レビ人に与えられた町と土地のリスト、またヨルダンの向こう側の部族とこちら側の部族との「祭壇」建設での誤解と解消が記録されたあと、年老いたヨシュアの遺言と、ヨシュアの最後の言葉が残されて、ヨシュア記は終わり、「士師記」へと入る。

 士師記でもヤハウェの言葉が聞こえている。そして神の使いが暗躍している姿が記録されている

 ヨシュアが死んだ後、ヤハウェの指名によりユダがリーダーとなり、兄弟のシメオンと共に、侵略を指導した。カナン人とペリジ人1万人を撃ち破り、ヘブロンのカナン人、デビルの住民、ゼパテのカナン人、エクロンの地域などを取った。(しかし民族絶滅の皆殺しはしなかった

  ヨセフの一族やマナセの一族はそれぞれ各町を攻め取ったが、住民は追い出さなかった。この後、イスラエルの各族は同様に、町を攻め取っても住民を虐殺せずに、強制労働に従事させるなどとした。
  しかしそこへ主の使いが、やってきて言った「わたしはエジプトからあなたがたを連れてきて、この国
の住民とは契約するな、彼らの祭壇を壊せ、と命じたが、あなた方は従わないのか。」と、征服住民を追い出さずに、虐殺しないで、共存しようとしているイスラエルの「新世代」にクレームをつけた。「わたしの命令に従わないゆえに、ヨシュアが残した敵の国民を、イスラエルから追い払わないで置こう。これはイスラエルを試すためである。」

 イスラエルの民は周囲の敵国民と次第に通婚し、彼らの神々を拝んだ。そこでヤハウェはイスラエルをメソポタミアの王に売り渡し、8年間、仕えさせた。やがてオテニエルが救助者として現われ、メソポタミアの頸木から解放し40年の太平が訪れた。またイスラエルは悪を行ったので、モアブの王エグロンに渡し、18年間仕えさせた。そのとき左利きのエホデが救助者として現れ、エグロンを暗殺して、80年の太平を開いた。

 そのうち民はまた悪をおこなったので、カナンの王ヤビンの手に、イスラエルを渡した。女預言者デボラはバラクに主なる神の預言を伝え、ヤビンの軍勢の長シセラに向かって立ち上がることを勧めた。シセラは撃ち破られ、徒歩で逃げる途中、ケニ人へベルの妻ヤエルの天幕に立ち寄り、休んだ隙に、ヤエルが天幕の釘を、シセラのこめかみに打ち込んで、殺した。
  こうして40年の太平となった。


 民はまた悪を行ったので、7年の間、(イシマエルの子孫)ミデアン人に渡された。民が主に呼ばわると、主の使いがギデオンに現れて、ミデアン人を打つように命じた。
  「さて主の使いがきて、テレビンの木の下に座して、言った。『あなたの力を持っていって、ミデアン人の手からイスラエルを救いなさい。わたしがあなたとともにおるから、ミデアン人を撃つことができるでしょう。』」
  ギデオンは「私と語るのがあなた(神)であるというしるしを見せてください。」そこで神の使いは、
  『肉と種入れぬパンをとって、この岩の上におき、それにあつものを注ぎなさい』ギデオンがそのようにすると、主の使いは、手に持っていたつえの先を出して、肉と種入れぬパンに触れると、岩から火が燃え上がって、それらを焼き尽くした。そして主の使いは見えなくなった。


 ギデオンはその人が主の使いだったと悟って、「ああ主なる神よ、どうなることでしょう。わたしは顔をあわせて主の使いを見たのですから。」
 それからヤハウェは、ギデオンの下に集まった援軍3万人に、2度も兵士としての資質を試して、そこから300人に絞った。(水を飲ませてみて、ひざを折り、かがんで水を飲んだものを除き、手を口に当てて水を飲んだものを選んだ。
 そしてこの300人がミデアンの軍勢を撃ち破った。
 ギデオンはミデアンの軍勢を更に追撃して、打ち滅ぼした。40年の太平が開かれる。ギデオンは多く
の妻をもち、子供だけで70人いた。

 その中の妾の子、アビメレクはやくざ者を雇い、自分の兄弟70人を石の上で殺した。人々は集まり、
このアビメレクを王とした。生き残った末っ子のヨタムは、山の頂からアビメレクと彼を王に立てた人々をなじった。そのころガアルが声を上げて、アビメレクをののしった。アビメレクはガアルの町やかれに味方した町を襲い、民を皆殺しして廻ったが、テベツの町で女がやぐらの上から落とした石に、頭蓋骨を割られて死んだ。

 アビメレクのあとは、トラが23年間、ヤイルが22年の間イスラエルを裁いた。そのあと民はまた悪を
行ったので、ペリシテとアンモン人が18年支配した。主は言った
 「あなたがたは私を捨てて、他の神々に仕えた。
わたしはあなたがたを救わない。あなたがたが選んだ神々に救いを求めるがよい。」
  エフタというものが、やくざものと一緒に、略奪をこととしていたが、長老たちがエフタに、アンモン人と戦ってくれるように要請した。エフタはアンモンの王たちに使いして何故攻めるのか聞いた。すると彼らは300年前に自分たちの土地を、イスラエルに取られたのだから、それを奪還するのだという。

 エフタは主に誓った。「もしアンモン人を渡してくれれば、私の家から最初に迎えにでてくれるものを、主に燔祭として捧げましょう」、こうしてエフタはアンモンと戦い、20の町を破り、アンモンを屈服させた。やがて自分の家に帰ると、ひとり娘が鼓をもって舞踊りながら出迎えた。エフタは衣を裂いて嘆いた。そして、娘は処女のまま、燔祭として捧げられた。


 エフタの勝利に不服を言い出したエフライムの部族との戦いが起き、エフライム42,000人が殺された。
こうしてエフタは6年の間、イスラエルに君臨した。その後は、イブザンが7年、エロンが10年、アブドンが8年支配した。

 イスラエルの人々がまた悪を行ったので、ペリシテ人に40年の間、支配された。そのころ、マノアという
女に、主の使いが現れて「男の子を生むでしょう。その子の頭にはかみそりを当ててはなりません。ペリシテ人からイスラエルを救うでしょう。」
 女は夫に言った「神の人が私のところに来ました。その顔かたちは、神の使いのようで、たいそう恐ろしゅうございました。」そこで夫は、直接自分たちに臨んでくれるように願った。

 使いは再び現れた。マノアがその使いに名を尋ねると、
私の名は不思議です。どうしてあなたはそれを訪ねるのですか。」そして使いは、マノアが岩の上で燔祭を捧げた時に、その炎のうちにあってそこから天に昇った。こうしてサムソンが生まれた。

  サムソンはペリシテ人の娘を見初めて、妻としようとした。そして女の親族30人がふるまいの席にやってきたので、彼らに謎がけをした。女がその答えをせびったので、教えてしまい、その代償に町のもの30人を殺し、その着衣を奪って客に渡し、家へ帰った。また、サムソンはペリシテ人の畑を荒らし、住民を大勢殺した。また彼を捉えに来た軍勢の1千人を撃ち殺した。そして20年の間、イスラエルに君臨した。
  サムソンはデリラを愛した。ペリシテ人はデリラにサムソンの力の秘密を探るように依頼した。デリラは何度も問いただし、失敗するが、その都度サムソンに言い寄り、ついに髪の毛の秘密を聞いた。そこでペリシテ人にそれを教えたので、彼は捕らえられ、両眼をえぐられ、獄屋に繋がれた。やがて髪の毛が伸び始めると、ホールの柱を倒して、3,000人のペリシテ人を道ずれに死んだ。

 そののち、あるとき、あるレビ人が、めかけとともに、エルサレムの近くのギベアにたどり着いた。ときにある老人と出会い、その家で宿ることとした。しかし夜半、町の悪い人々が、旅人を出せ、それを知りたいのだ、と言い寄ったので、老人は自分の娘と旅人のめかけを提供しようとした。めかけは終夜辱められたので、戸口に帰り着いたときは動けなかった。旅人はめかけを自宅へ連れ帰り、その身体を12切れに刻んで、イスラエルの部族に送った。

 これを知って憤慨したイスラエルの部族から、40万人が集まり、ギベアのベニヤミンの部族2.6万と戦った。最初の2回はイスラエルが撃ち殺されたが、3度目にベニヤミンの兵士5万人が壊滅した。イスラエルはさらにベニヤミンの人々も獣も、すべて見つけたものは撃ち殺し、町に火をかけた。こうしてベニヤミンの部族は消えた。
 また、会衆は集会に参加しなかったヤベシ・ギレアデの住民を襲い、そこの男と、男と寝た女をこと
ごとく撃ち殺して、400人の処女を連れ帰り、それをベニヤミンの残った人に分け与えて、ベニヤミンの部族が残るようにした。

 
  サムエル記(上)」は歴史時代に入ったイスラエルの動向を記録したものだが、
最後には英雄ダビデが登場する。

 エルカナの妻のひとりハンナは、子供がないので、シロの主の神殿で主に祈った。そうして男の子に恵まれ、サムエルと名付けた。そして神殿にその子を捧げた。主はサムエルを呼んで、主の神殿の司祭エリの息子たちの悪事を糾すことを告げる。

 ときにイスラエルとペリシテは戦っていたが、イスラエルが4,000人を失った。そこでイスラエルは主の契約の箱を戦場に持ち出した。しかしペリシテは奮起し、イスラエルを破り、3万人が殺され、主の契約の箱は奪われた。それを聞いた司祭エリは門から落ち、首を折って死んだ。彼の嫁は栄光はイスラエルを去った、といった。


 ペリシテ人は神の箱をアシドドのダゴンの宮に運び込んだが、ダゴンの像は翌日箱の前に打ち倒されてお
り、その次の日は八つ裂きとなっていた。さらに付近の住民に腫れ物が流行し、ガテに移すと、そこの住民に腫れ物が蔓延した。
 そこでペリシテ人は、牛車に箱を積み、土産に金のねずみと腫れ物の像をつけて、放したところ、それは
ペリシテの領地を出て、ベテシメシに着いた。その町で、主の箱を覗いたものがあったので、70人が主によって撃たれた。
 箱はキリアテ・ヤリムに留まり、20年が経った。サムエルは「主に立ち返ろう」といい、ミズパで水
を汲んで主の前に注ぎ、イスラエルの人を裁いた。そしてペリシテ人を打ち、町々を取り返した。

 サムエルが老いてきたとき、人々はサムエルに王を立てるように迫った。サムエルは王ができれば、徴
兵し、娘を取り上げ、畑の最も良いところも取り上げてしまうことになる、と翻意を促したが、民は聞き従わず、われわれを治める王を、と要求した。

 さてここに、若くて麗しく、民の誰よりも肩から上、背の高いサウルという若者がいた。先見者のサム
エルと出会い、共に食事をした。そしてサムエルはサウルに油を注ぎ、祝福して、王とした。
 
 アンモン人が攻め上ってきた。降伏の条件は、すべてのものの右目を抉ることだといったので、民は皆
泣いた。それを聞いたサウルは、牛を裂き、その切れ端を全イスラエルに送り、サウルとサムエルに従ってでてこないものは、このようになるだろう、といわせた。33万が集まった。次の日その軍勢はアンモン人を襲い、全滅させた。そしてサウルは王となった。

 サムエルはそのとき、イスラエルの人を前に、主のこれまでの歴史を並べ、諭した。そして、神に呼ばわると、そのとき主は雷と雨を下したので、民はみな主とサムエルを恐れた。
 さてペリシテ人はイスラエルと戦うために大勢が集結してきた。しかしサウルの軍勢は恐れをなして散り
始め、わずか600人しか残っていなかった。
  サウルの息子ヨナタンは少人数の部下を連れてペリシテ人に挑み、これを撃ち破って、そのためペリシテ人は総崩れとなった。その最中、サウルは「今日食物を食べる者はのろわれる」といっていたが、ヨナタンは蜜をなめ、皆に勧めた。サウルはヨナタンを罰しようとしたが、民がそれを押し留めた。

 サムエルはサウルに言った「主が言われる『イスラエルがエジプトから上ってきたとき、アマレクは敵対した。今行ってアマレクを撃ち、そのすべてのものを滅ぼし尽くせ。男も女も、幼子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも、皆殺せ。』」
 サウルは20万の軍勢をもって、アマレクの町へ行き、ケニ人にアマレクから離れるように伝えて、ア
マレクを襲った。そしてその民をみなことごとく滅ぼしたが、畜類のいいものは滅ぼさなかった

 そこで主は怒り、「わたしはサウルを王にしたことを悔いる。そむいて私に従わず、私の言葉を行わなかったからである。」そこでサムエルはサウルを詰問したが、サウルは弁明した。しかしサムエルは許さなかった。

 サムエルは主の命令により、ベツレヘムへ旅して、エッサイとその子たちを清めるために犠牲の場に呼んだ。エッサイは7人の子に、サムエルの前を通らせたが、サムエルはみな違うといった。そして最後に、末っ子のダビデが呼ばれた。その姿の美しさを見て、サムエルはこれが神が選んだ王だ、と確信し、彼に油を注いだ。サウルは人づてにダビデの事を聞き、彼を呼び寄せて、仕えさせた。

 さて、ペリシテ人は軍を集めて戦おうと出てきた。イスラエルも陣取った。そこにペリシテの巨人ゴリアテが出てきた。身の丈280cm、1対1の勝負を叫んだ。イスラエルの人は非常に恐れた。しかしたまたま戦場にやってきたダビデは、石投げ器と石を取り、このゴリアテの額を狙って撃ち、これを倒した。そのため、ペリシテ人は総崩れとなり、イスラエルが勝利した。

 ダビデはサウルに召抱えられたが、何度も大きな手柄を立て、民の人気が王を上回ったので、サウルはダビデに用心した。王は娘のミカルを妻に与えた。

 サウルはダビデを殺そうと、家来たちに命じた。しかし息子のヨナタンがそれを押し留めて、王に翻意するように説得した。その後、王には悪霊がついて、ダビデを狙って槍を投げた。ダビデは身をかわし、王宮から逃げ出した。そしてサムエルのところへ逃げ込んだ。

 こうしてダビデの命を狙う王と、それを阻止してダビデを救おうとするヨナタン、逃げ惑うダビデの話しが展開する。国中を逃れまわっているダビデとそれを追う王が、あるとき同じ洞穴で、ダビデが奥に隠れ、王が入口で休んだことがあった。そのときダビデは王の築かないうちに王の裾を切り取った。そして出掛けた王に、後ろから呼んで、自分に害意のないことを告げた。サウルはダビデがいずれ王になることを悟り、自分の子孫を絶やさないことを誓って欲しいと要望した。

 サムエルは死んだ。そこで庇護者を失ったダビデは、かっての敵ペリシテ人の国に逃れた。そのペりシテ人がイスラエルを襲うことになった。サウルは霊媒師を訪ね、サムエルの霊を呼び出し、策を正したが良い結果は得られなかった。ペリシテの軍勢を率いる王たちは、中にいるダビデのことを聞いて、彼を放つように命じた。
 ダビデが自分たちの拠点に戻ると、そこは略奪されていたので、その賊を探し出し、皆殺しにして、奪われた妻や人やものを取り返した。そしてペリシテ人との戦いで、サウルは死に、ヨナタンや子供らも死んだ。

 「サムエル記(下)」では、ダビデの統治が著述されているが、
          最後の章ではヤハウェの恐るべき怒りが爆発する

 サウルが戦いで死んだ知らせがダビデにもたらされる。知らせた若者は、サウルに最後の止めを刺し
て、冠と腕輪をダビデに差し出した。この若者をダビデは部下に殺させ、サウルとヨナタンの死を嘆いた。  ダビデはそれからヘブロンに上り、ユダの人々に油を注がれ、ユダの王となった。一方、サウルの子イシボセテはイスラエルの王となった。そこで双方12人の家来を立て、戦わせたところ、ダビデの家来が勝った。
 
 そしてイスラエルの長老たちがやってきて、とうとうダビデを推戴して、油を注いで王とした。このと
きダビデは30歳で、それから40年治めた。ダビデはエルサレムを攻め取り、また出てきたペリシテ人を破った。
 
 

 モーセがエジプトを出た年を出エジプト元年とすると、このダビデの即位はおよそ出エジプト520年前後となる。聖書に記載された各時代の王や指導者の統治期間を積算すると、およそ520年となるからである。一方、出エジプトの時期は確定が難しいが、章で推定したエジプト18王朝3代アクエンアテン王の終焉時期である前1334年頃とした場合、ダビデ王の即位は前814年となる。そしてモーセからダビデの520年間、ヤハウェはアークを介在した助言のやり取りで、イスラエルの民と接触を欠かさないでいる。


 ダビデは3万人の兵士とともに、主の契約の箱をかきあげた。途中付き添いのひとりが箱が傾いたので、それに手をやったところ、その箱に撃たれて死んだ。ダビデは怒り、エルサレムに持ってこずに、途中の家に置いた。その後、ダビデは主の箱を、踊りと角笛と叫びで以って、かきあげてダビデの町へ運んだ。

 ダビデは天幕のうちに主の箱を安置したが、神の家を建てようと心に決めた。神はそれをよしとして、
末永くダビデの家を保証すると、預言者ナタンを通してダビデに告げた。

 ダビデはペリシテ人を撃って征服し、モアブを撃って僕とし、ゾバの王を撃ち、ダマスコのスリヤ人2万人を撃ち殺し、こうしてダビデはイスラエルの全地を治め、名声を得た。

 イスラエルは春になってアンモンを撃ち、ラバを包囲した。ときにダビデはエルサレムのダビデの城の
屋上から、美しい女の行水姿を見て、一目ぼれした。そこでダビデはその人妻の夫、ウリヤを戦いの前線に送り、そのためウリヤが戦死したので、その妻のバテシバを王宮に召しいれて、子を産ませた
 主の使いでナタンがやってきて、ダビデにそのことを指摘し、神の怒りを伝えた。そのため生まれた子
は病気になり、ダビデは回復を祈って断食をした。が、7日目には、子供は死んでしまったので、ダビデは起き上がり食事をした。次にダビデはバテシバのところへ入り、ソロモンが生まれた。

 ダビデの子のアブサロムには美しい妹のタマルがいた。同じダビデの子のアムノンはタマルに恋して、
一計を立てて、タマルを誘い出し、これを辱めて寝た。そのあと、アムノンはタマルを憎み、「出てゆけ」という。タマルは灰を頭にかぶり、着ていた着物を裂き、手を頭に乗せて叫びながら去った。それを聞いたアブサロムは2年後、アムノンを始めダビデの子たち全員を食事に誘い、アムノンを部下に殺させた。アブサロムは逃れた。
 
 ダビデはヨアブの仲介により、アブサロムを許した。しかしその顔を見ないようにした。そこで2年後
に、アブサロムは一計を案じて、ヨアブの畑を焼き、王と面談できるように依頼して、首尾よく謁見できた。
 アブサロムはそれからエルサレムの門前に立ち、人を裁くようになった。その後ヘブロンに行き、王と
なったと宣言した。エルサレムの徒党もアブサロムに味方したので、ダビデはエルサレムを追われて、荒野に布陣した。このときダビデはオリブ山の坂道を泣きながら登った。その間に、アブサロムはエルサレムに入城した。
 
オリブ山の頂で、ダビデはサウルの家の一族のものに呪われる。アブサロムはダビデの妾のところへ入った。そしてダビデの軍とアブサロムの軍は戦い、アブサロムは敗北し、逃げる途中に樫の木に頭を挟んで吊り下げられ、ヨアブの槍で心臓を貫かれた。ダビデはその死を聞いて、嘆いた。

 ヨアブは嘆き悲しむダビデを諌め、アブサロムを破った軍の兵士の立場はどうなるのか、と説いた。そ
こでダビデは態度を改めた。やがてイスラエルのもろもろの部族が、ダビデの帰還を要請した。ダビデはヨルダンを渡った。皆がダビデを迎えに来て、祝福した。

 イスラエルはまたペリシテ人と戦った。このペリシテには巨人の子孫が4人いた。そのうちのひとりには、手足の指が6本づつあり、あわせて24本あった。しかしヨナタンによって殺された。
 ちなみに、宣教師ルイス・フロイスによれば、豊臣秀吉は、片方の手の指が6本あったと記している。


 そして、また突然、ヤハウェは怒った。(この怒りの理由は明らかにされていない。)

 主は再びイスラエルに向かって怒りを発し、ダビデに『行ってイスラエルとユダとを数えよ』と命じた。10ヶ月かけて調べたら、イスラエルの勇士は80万人、ユダは50万人だった。すると神はダビデに、預言者ガデから言わせた(この兵士の数を調べるのと、ヤハウェの怒りとはどんな関係があるのか。)

 3年の飢饉がよいか、敵に追われて3ヶ月逃げ回るのが良いか、3日の疫病が良いか、決めなさい」ダビデは自分が対象になるのを断った。そこで主は朝から定めのときまで疫病をイスラエルに下された。民の死んだものは7万人あった。天の使いが手をエルサレムに伸べてこれを滅ぼそうとしたが、主はこの害悪を悔い、民を滅ぼしている天の使いに言われた。『もはや充分である。いまあなたの手をとどめるがよい。』
  ダビデは民を撃っている天の使いを見たとき、主に言った。「わたしは罪を犯しました。悪を行いました。しかしこれらの羊たちは何をしたのですか。どうぞあなたの手を私と私の父の家に向けてください。」(サムエル下24


  これで事件は終わるのだが、これはいったいどう解釈したらよいのだろうか。神は突然怒りだし、兵士の数を数えさせて、その結果が9ヶ月後に出ると、飢餓か、疫病か、ダビデが逃げ回るかの3つから選べと言い、疫病になった途端に、天の使いがやってきて民を疫病で殺戮して廻ったのだ。速効性の疫病のようで、3日もしないうちに次々に死んでゆくのだ。しかしこの死者たちには、いったいどういう咎があったというのだろうか。それをダビデも追及している。しかしヤハウェは答えられない。「この害悪を悔いている」のだ。理由もなく民を殺害しまくって、そうした行為を悔いる、という「神」が、この世にいるのだろうか。モーセの時代から300年が経っても、このヤハウェの民に対する苛烈さや、思いやりのなさ、というのは少しも変わらない。まったく「イナゴ」に対するような姿勢だ。そして死体が山のように積み重なって初めて、「悔いている」のだ。

 それともこれは、強力致死性の疫病という自然災害が発生したのであって、それもまたヤハウェの所業
とするならば、ではどういう物語だと、そのことが不自然ではなく理解できるのか、といった観点から筋書きが練られていった、ということなのだろうか。そうとすれば、ヤハウェの独白も後から挿入した創作であり、預言者ガデのセリフもすべて創作だということか。しかし、このあとの歴代志上21章では、このことについて、次のような文言が見られる。

 「時にサタンが起こって、イスラエルに敵し、ダビデを動かして、イスラエルを数えさせようとした。」このことが神の目に悪かったので、神はイスラエルを撃たれた。とある。民の数を数えることが、神にとって「悪いこと」に映る、というのはどういう意味か、理解に苦しむのだが、それをサタンが密かにダビデに持ちかけた、ということが「悪いこと」になるのだろう。しかしここでの重大な問題はそこではなくて、それをさせたのが、神ではなくて、サタンすなわち悪魔であった、ということだ。サムエル記では命じたのは神だという記録があり、歴代志では命じたのは悪魔だという。

 矛盾する記録が、同じ聖書の中で両立しているのだ。これはどうも、最初はヤハウェがダビデに命じたことなのだが、結果的に「神」にあらざる行為へと発展していったために、言いだしっぺをサタンに代えたのだろう。ことほど左様に、このヤハウェは「神」にふさわしいものではなく、実に「悪魔」と置き換えられても不思議ではない存在だったのだ。






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