20.エゼキエル書、ヤハウェが機械の乗り物に乗って登場

 


  エゼキエルはエルサレム神殿の祭司であったが、第1回捕囚(紀元前597年)の際に、バビロニアに連行された。捕囚の5年目、彼は預言者としての召命を受ける。
 「わたしがケバル川のほとりで、捕囚の人々のうちにいたとき、天が開けて、神の幻を見た。見よ、激しい
風と大いなる雲が北から来て、その周囲に輝きがあり、絶えず火を吹き出していた。その火の中に、青銅のように輝くものがあった。その中から、4つの生き物のかたちが出てきた。人の姿である。(ケルビムである。)おのおの4つの顔をもち、4つの翼があった。
 足は真っ直ぐで、足の裏は子牛の足の裏のよ
うで、青銅のように光っていた翼の下に人の手があった。前方に人の顔が有り、右に獅子の顔、左に牛の顔、後ろに鷲の顔をもっていた。ふたつの翼は高く伸ばされ、頭の上で連なり、その上には水晶のように輝く大空の形が広がっている。行くときは大軍のような大きな音がして、止まるときは翼をたれる。
 この大空の上に人の姿のような形が有った。その姿の腰より上には、青銅が囲んでいるようだった。その姿のまわりには輝きがあった。」


 「また二つの他の翼は身体を覆っていた。この生き物の中には、燃える炭火のようなものがあり、たいまつのように生き物の中を行き来している。その生き物のかたわらに、地の上に輪があった。生き物おのおのにひとつづつである。輪の中に輪があるようで、輪の幅があり、そこを目が取り巻いている。この輪が、生き物の上昇や行き来と常に一緒になっている。顔を伏せた時、語る声を聞いた。

  エゼキエルが見た神というのは、金属で作られた飛行体の上に座す、青銅のユニホームを身に着けたものであった。飛行体は複雑な構造で、内部には回転する燃料が見える。ヘリコプターのように、回転する輪があり、それで行き来している。ただしそのときの音は凄まじい。翼というのは、どうも方向や速度を調節するためのようで、飛行機の尾翼のような役割ではないか。すると、こうした姿を再現すると、それは実際に今でも飛行できるものではないか。これを紀元前5〜8世紀に使っていれば、その頃の人には、まさしく神の姿に見えるだろう。それが2500年の時間に彼らの科学が進歩して、現代のUFOになったのだろうか。

 そこで神自身の姿だが、どうも青銅に見える金属のようなユニフォームに身を包んでいる。2本足のようで、足の裏があるところをみると、人間のような直立2足歩行の姿をしているようだ。しかし顔は分からない。士師記13では、「たいそう恐ろしゅうございました」とある。とすると、人間のような目鼻立ちではなく、ほかの生物ではなかろうか。
 人間にその姿を見せられない理由のひとつが、その顔や姿の怪異さにあり、とても万能の主としての威厳や尊厳を得られるものではないのではないか。出エジプトの神の山のふもとでは、神の傍に近づいたことのあるアロンは、神の姿として、子牛を鋳造した。また、列王記12ではヤラベアムがエルサレム巡礼の代わりに、金の子牛を造って、民に与えた。子牛の姿というのは、神の実像に近いのだろうか。


 彼は言った「わたしはあなたをイスラエルの民、すなわちわたしにそむいた反逆の民につかわす。」このときわたしが見ると、わたしのほうに伸べた手があり、手の中に巻物があった。これを開くと、表にも裏にも文字があり、悲しみと嘆きと災いの言葉であった。
  彼はわたしに言われた「この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」・・時に霊がわたしをもたげた。そして主の栄光がそのところから上ったとき、生き物の互いに触れ合う翼の音とその傍らの輪の音で、地震のような響きを聞いた。


 
翌年、わたしの家で長老たちの前に座っていたとき、神の手がわたしの上に下った。見よ、人のような形があって、その腰から下は火のように見え、腰から上は青銅のように輝いていた。彼は手のようなものを差し伸べて、わたしの髪の毛をつかんで、エルサレムに携えて行った。そこでイスラエルの神に背いている人々の姿を見せられた。
 ここにイスラエルの神の栄光が、その座しているケルビムから立ち上がり、墨壺を付けているものを呼び、「エルサレムの中をめぐり、憎むべきことに対して嘆き悲しむ人々の額にしるしをつけよ」
 また他のものに、「彼の後に従い、しるしのない老若男女をことごとく殺せ、死人で庭を満たせ。


 ここでも、この神の性癖が現れる。つまり、自分の意に添わない人間どもは、情け容赦なく皆殺して、ことごとく殺しまくれ、というこの残忍な性質は、どこから来るのだろうか。それも、殺すに飽き足らず、死人で庭を満たせ、という言い草は、殺すことが目的のようである。何のために殺すのか、というのが脱落している。憎むべきことに対して、嘆き悲しむ人は許すが、そうでない人間が虐殺の対象となる。いったい誰が許されるのか。憎むべきことの内容がはっきりしないため、許される人は皆無ではないか。殺しまくることが目的であり、それが楽しみではないのか。

 ケルビムの頭の上の大空に、サファイヤのようなものが王座の形で現れた。彼は、墨壷の人に言った「ケルビムの下の回る車の間に入り、炭火を取って、町中に撒き散らせ。」見よ、ケルビムの傍らに4つの輪があり、一つの輪はひとりのケルブのかたわらに、他の輪は他のケルブの傍らにあった。行くときは輪は回らず、先頭の輪に従う。そのおのおのに4つの顔があり、ケルブ、人、獅子、鷲の顔だった。

 「わたしはエジプトの地で、わたしの憤りを彼らに注ぎ、わたしの怒りを彼らに漏らそうと思った。しかしわたしは私の名のために行動した。それはエジプトの地から彼らを導き出して、周囲に住んでいた異邦人たちに、私のことを知らせ、わたしの名が彼らの目の前に、辱められないためである。・・「ただしわたしは荒野で彼らに誓い、わたしは異邦人の間に彼らを散らし、国々の中に彼らをふりまくといった。これは彼らがわが掟を行わず、・・わたしはあなたがたに、鞭の下を通らせ、数えて入らせ、従わぬものと、わたしにそむいたものとを分かち、・・こうしてあなたがたはわたしが主であることを知るようになる。・・」


 5600年前になる昔の出エジプト時の、そのときのヤハウェの心情がここで吐露されている。イスラエルの民のふるまいに、怒りを感じていたが、それで民を根絶やしにすると、モーセの言うように、周りの民がこの主なる神をあざけって、カナンへ導き上れない非力なのでその民を殺した、と思われないために、しぶしぶ民のふるまいを我慢した、というのである。エジプトから導きだしたのは、民を救うための行動ではなく、あくまでも自分の名前が持ち上げられるためにしたことなのだ、という。

 ここまで自分の名前が上げられることに執着するというのは何故だろうか。それも自分から見て、限りなくひ弱な立場の人間を相手に。もし神々の間で充分に立場を尊重され、同僚たちからも崇拝されていれば、人間相手に、庇護することはあっても、なにも得ようとは思わないだろう。とすると、この主なる神とそのグループというのは、神々からも相手にされないもので、そこで自分たちの家来か奴隷のような存在として人間を操り、そこにひそかな喜びを見出した連中なのではなかろうか。


 そして23章では、ヤハウェは、サマリアとエルサレムとアッシリアなどの争乱を、若い姉妹アホラ、アホリバの淫行に例え、その所業をリアルに告発するのだが、淫行そのものに興味があるのか、その様子を下手なエロ小説のように綴っているのだ。馬のような精などという表現は、とても神の口から出るものではなく、その表現の下劣さはどうだろう。
 主の言葉がわたしに臨んだ「アンモンの人々に言え、あなたはわが聖所の汚された時、またイスラエルの地の荒らされた時、またユダの家が捕え移された時、ああ、それは良い気味であると言った。それゆえわたしはあなたを、もろもろの国民に渡して略奪にあわせ、あなたをもろもろの民の中から断ち、諸国の中から滅ぼし絶やす。そしてあなたがたは、わたしが主であることを知るようになる。

 「エドムは恨みを含んでユダの家に敵対し、それゆえ・・ペリシテ人は心に悪意を持ってあだを返し、・・それゆえ大いなる復讐を彼らになす。かれらはわたしが主であることを知るようになる。

 主の言葉がわたしに臨んだ「ツロはエルサレムについて言った『ああ、それはよい気味である。わたしは豊かになり、彼は敗れ果てた。』それゆえ、わたしは王の王なるバビロンの王ネブカデネザルに、多くの軍勢を率いて、ツロに攻めこさせ、あなたの娘たちを剣で殺し、剣であなたの民を殺す。・・わたしはあなたを荒れた町となし、あなたを穴に下る者どもと共に、昔の民のところに下し、下の国に、昔のままの荒れ跡の中に、あなたを住ませる。・・」

 「人の子よ、ツロの君に言え、あなたは心に高ぶって言う『わたしは神である、神々の座に座って、海の
中にいる』と。見よ、わたしはもろもろの国民の最も恐れている異邦人をあなたに攻め込ませる。かれらは剣を抜いて、・・人の子よ、ツロの王のためにこれを言え、あなたは神の園エデンにあって、もろもろの宝石があなたを被って・・あなたは神の聖なる山にいて、火の石の間を歩いた。あなたは造られた日から、あなたの中に悪が見出された日までは、そのおこないが完全であった。あなたの中に暴虐が満ちて、あなたは罪を犯した。それゆえ、わたしはあなたを神の山から、汚れたものとして投げ出し、守護のケルブはあなたを、火の石の間から追い出した。・・」

 「エジプトの王パロよ、見よ、わたしはあなたの敵となる。あなたはその川の中に伏す大いなる龍で、
『ナイル川はわたしのもの、わたしがこれを造った』という。・・そしてエジプトのすべての住民はわたしが主であることを知る。・・」

  
「嘆け、その日はわざわいだ。その日は近い、主の日は近い。つるぎがエジプトに臨む。・・わたしはナイル川をからし、その国を悪しきものの手に売り、異邦人の手によって国とその中のものを荒らす。・・エジプトの国には、もはや君たるものがなくなる。テーベの群集を断ち、エジプトに火を下す。若者は剣に倒れ、女たちは捕らえ移される。」

 エジプト人の咎とは何か。それは数百年前の、出エジプトでのことではないか。それを今頃持ち出して、復讐するために、エジプトの民を怒りで皆殺し、女と娘を拉致し、王が立たなくするようにするのだという。この予言は、いったいどういう精神状態での予言なのか。これこそ変質狂の殺人者の言い草ではないか。しかも自分が「世界で一番の神」と、認めさせるためにこれを持ち出したというのは、実に幼稚な発想で、これがエゼキエル自身の主張でなくて、神からの言葉ならば、その神というのは誇大妄想のパラノイアだろう。もしこれが誰の仕業なのか、これは神なのか悪魔なのかと、問えば、間違いなく悪魔の所業ではなかろうか。

  37章では、主の手がわたしに臨み、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。主なる神は
これらの骨に言われる、「見よ、わたしはあなたがたのうちに息をいれ、あなたがたを生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る。」すると見よ、骨と骨が集まってあい連なった。
 「ゴグよ、終わりの日にわたしはあなたを、わが国に攻め来たらせ、あなたをとおして、わたしの聖なるこ
とを諸国民の目の前にあらわして、彼らにわたしを知らせる。・・その日、わたしはイスラエルのうちに、墓地をゴグに与える。これは旅人の谷にあって、海の東にある。これは旅人を妨げる。そこにゴグとその民衆を埋めるからである。これをハモン・ゴグの谷と名付ける。」

  神は幻のうちに、わたしをイスラエルの地に携えて行って、非常に高い山の上におろされた。その山の上に、わたしと相対して一つの町のような建物があった。見よ、青銅の形のようなひとりの人がいた。手に持った麻のなわと、測り竿で、その建物を測りだした。その中の宮は周囲が250m四方であった。そのとき、東の門に、神の栄光が東の方からやってきたが、その響きは大水のようで、ケバル川のほとりで見た幻と同様であった。主の栄光が東門に入った時、主の栄光が宮に満ちた。「人の子よ、これはわたしの位のあるところ、わたしの足の裏の踏むところ、わたしが永久にイスラエルの人々の中に住むところである。

 あなたはこの宮の寸法を書き留めて・・祭壇をたて、燔祭を捧げ、無傷の牡牛の子と無傷の牡羊を捧げよ・・。」「東の門は閉じたままにしておけ、神の出入り口である。」

 ここで主なる神は、自分の都をフォログラムに映し出した。または、山の上にその都を、着陸させた。そしてエゼキエルにそれを観察させて、それを建てるように依頼する。そこは主なる者が住んでいるところなのだ。その都はどこにあるのか。天空なのか、月なのか、それとも地底内部なのか。2km四方の立体の町なのだ。

 主なる神はこう言われる「あなたがたは、わたしの食物である脂肪と血とが捧げられる時、心にも肉に
も、割礼を受けない異邦人を入れて、わが聖所におらせ、これを汚した。・・わが聖所の務めを守った者どもは、わたしに仕えるために近づき、脂肪と血とをわたしに捧げるために、わたしの前に立て、と主なる神は言われる。
  
かれらが内庭の門に入る時は、麻の衣服を着なければならない。毛織物を身につけてはならない。外庭に出て民と接するときは、衣服を聖なる室におく、これはその衣服を持って、その聖なることを民にうつさないためである。また髪は剃らず、長く伸ばさない。・・」

 ここにきてようやくこの神の秘密の一端が明かされる。神の食物は、人間が捧げる犠牲の牛・羊・ヤギの血と脂肪であることが明かされている。それを何らかの方法で食するのだろう。犠牲の血は、祭壇の基に注ぎかけることが決められているが、その血はどこにゆくのだろうか。
 そのためには、人間の奉仕者が必要であり、常に食物となる犠牲を供給してくれる必要がある。その人間奉仕者や犠牲の家畜を確保するために、出エジプトでイスラエルの民を救出し、これを自分専用の奉仕者としようと目論んだのだろうか。

  近年、血を抜かれた牛が放置されるキャトルミューテーションということがあるようだが、これは犠牲の動物にありつけなくなった神が、自分で食用として摂取しているのだろうか。そうすると神の種族は今なおどこかに潜んでいて、人間どもに介入する機会を狙っているのだろうか。


 そして最後はダニエル書である。


 バビロニアの王ネブカドネザルが、夢を見て、その解き明かしを示すように、知者に命じたが、その中身は
明かさず、その中身もろとも示すよう求めたが、誰も答えられなかった。それをダニエルが主の助けを借りて、解き明かした。
 ダニエルと共にいた友人の3人が、火の燃え盛る炉に投げ入れられたが、神の助けにより何も損なわれ
ずに出てきた。そして、ダニエルが再びネブカドネザル王の夢を解き明かした。

 ネブカドネザルの次の王ベルシャザルが、宴会中に、突然人の指が現れ、宮殿の壁に字を書いた。それをダニエ
ルが解き明かした。「王の国が分けられて、メヂアとペルシヤの人々に与えられる」その夜、王は殺されて、メディア人ダリヨスが王座についた。
 
 ダニエルは獅子の穴に投げ入れられたが、神が獅子の口をふさいだので、何の傷もなく出てきた。

 ダニエルは夢に4つの大きな獣が海から上がってくるのを見た。「見よ、人の子のようなものが、天の
雲に乗ってきて、日の老いたるもののもとに来ると、その前に導かれた。彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民・諸族・諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。」

 ダニエルはまた、雄羊と雄ヤギの夢を見る。ガブリエルがやってきて、その夢を解き明かす。・・「あ
なたの民とあなたの聖なる町については、70週が定められています。これは咎を終わらせ、罪に終わりを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです。
 それゆえエルサレムを立て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、7週と62週あるこ
とを知り、悟りなさい。その間に、エルサレムは広場と街路とを持って、建て直されるでしょう。その62週の後に、メシヤは断たれるでしょう。但し自分のためにではありません。またきたるべき君の民は、町と聖所を滅ぼすでしょう。・・かれは1週の間多くのものと、固く契約を結ぶでしょう。そして彼は、その週の半ばに、犠牲と供え物を廃するでしょう。また荒らすものが、憎むべきものの翼に乗って来るでしょう。

 こうしてついにその定まった終わりが、その荒らすものの上に注がれるでしょう。」
 
 メシヤ伝説の発端が、ここから出てくる。イザヤ書自体は、人間にやさしい論調で書かれているが、ダニエル書は未来予言が中心だが、比較的ひとにやさしい立場にある、

 わたしがチグリスという大川の岸に立っていたとき、一人の人がいて、亜麻布の衣を着て、金の帯を腰
に締めていた。その身体は緑柱石のごとく、その顔は電光のごとく、その目は燃えるたいまつのごとく、その腕と足はみがいた青銅のように輝き、その言葉は群集の声のようであった。
 
「わたしはいまあなたに真理をしめそう。見よ、ペルシヤになお3人の王が起こるでしょう。・・彼はついにその終わりに至り、・・そのときあなたの民を守っている大いなる君ミカエルが立ち上がります。・・そのときあなたの民は救われます。地のちりの中に眠っている者のうち、多くのものが目を覚ますでしょう。・・あなたは終わりの時まで、この言葉を秘し、この書を封じておきなさい。・・常供の燔祭が取り除かれ、荒らす憎むべきものが立てられるときから、1290日が定められている。待っていて、1335日に至るものは幸いです。しかし終わりまで、あなたの道を行きなさい。」

 こうして、ダニエル書も終わる。


 こうして旧約聖書全体の要約と、疑問点を採り上げてみた。






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