(このあとも神の不在期間が続く)
こうしてみると、神の不在期間の問題よりも、神が臨在した時期自体が実にわずかの期間であり、しかもわずかの人間に対しての臨在であったことがわかる。その臨在したことの記憶や遺言を、後生大事に本当の事として、子孫に伝えたのだろう。 しかしもしその神の臨在が本当のことならば、この「かくも永き神の不在」期間を取り上げねばならない。その間、このヤハウェはいったいどこにいたのだろうか。
ヤハウェがいなくなった時期といえば、ヤコブがエジプト入りしてからの400年間、ヤハウェ神はどこにも現れていないのである。モーセがホレブの山で「主なる神」と出会うところから、再登場となるだが、この空白の400年間というのは何故なのだろう。この神の特性としては、自分専属の民を育成し、そこに支配力を行使する、という傾向が強い。それではこの前1700〜1400年の時期に、世界の歴史上、良く似た1神教の君臨した社会・国家はあったのだろうか。
この時期に繁栄を迎えたいくつかの文明といえば、まず、中国では「殷」(商)が上げられる。前1600年ごろに成立した王朝で、湯王から始まって500年間栄えた。その前の「夏」の王朝は、伝説の要素が強いので、歴史上実在が確定しているのはこの王朝からである。しかもその出現は唐突で、王権の強大さは比類がなく、王陵を発掘すると殉死者が1万数千人もあって、発掘者を戦慄せしめている。また、亀甲や獣骨を焼いて占卜したが、重ねて占卜の都度、犠牲の供え物を増やしている。
次に、怪物ミノタウロスの伝説で知られるクノッソス宮殿は前1700〜1450の時代に最大の繁栄を迎え、その宮殿は大迷宮と呼ばれた。また、ギリシアのミケーネ文明は前1600〜1200に繁栄した。
さらに、南米のアンデスでは前1800年から1500年にかけて大規模神殿の建設が進められ、コトシュ遺跡は「交差した手の神殿」として知られるが、その文明の内容はまだはっきりとは分からない。前800年頃に神殿は一斉に放棄されている。
また、前1500年頃を頂点に、前2000〜1200の間に栄えたのが、謎の王国ヒッタイトである。鉄器と3人乗り戦車を武器に、エジプトと並ぶ大帝国となった。突然現れたこの国は、また突然歴史上から消え去ってしまった。その歴史や民族の全貌は近年の発掘でようやく解読されようとしている。
こうして、イスラエルの民と疎遠になっていた時期には、いくつもの民族興亡があるのだが、果たしてそちらのほうへ、歴史・民族介入をしていたのだろうか。だが、どうもイスラエル方式との明確な相似点は見られないようだ。
そこで、もしそうした他民族との繋がりが全くないということであれば、この神は地上にいなかった、ということも考えられるのではないか。つまり何らかの事情で、地上を離れて本拠地へ戻っていた、ということも考えられる。そのために、イスラエルの民に、関与することができなかった。そこで、モーセの時代以降には、こうした空白期間をなくするために、聖櫃アークを利用して、地上の司祭と通信をすることとしたのだろうか。だがそれも、イザヤ以降は、聖櫃が大地に飲み込まれて、できなくなってしまうことになったということなってしまうのだが。
偽典の「預言者の生涯」では、預言者(エレミヤ)が神殿が敵の手に落ちる前に、律法の箱とその中に入っているものをとって、それらを岩の中に保管させた、とある。話は続く。そして供の者たちに言った。「主はシナイ山から天へ昇ってゆかれたが、再び力を持っておいでになる。
その来臨のしるしとして、すべての異邦人が木を礼拝するようになるだろう。」
「この箱はアロンの他にはだれも取り出す者はない。またその中の板は神に選ばれた者であるモーセ以外には、祭司も預言者もだれひとり開く者はない。復活に際しては、まずこの箱が第一に立ち上がり、岩の中から出てきてシナイ山に置かれる。それから聖者たちはすべて、彼らを殺そうとする敵の手を逃れて、その箱の許に集められて、そこで主を待ち望むのである。」
エレミヤは指で岩に神の名の封印をした。その形は鉄で彫ったもののようであった。雲がその名をおおったので、今日に至るまで、また終末に至るまで、誰もその場所に気付かず、その文字を読むこともできない。その岩は砂漠にあるが、そこは箱が最初にあった場所であり、つまりモーセとアロンが埋葬されているあの2つの山の間の地点である。(「預言者の生涯」)
アークが音声認識付きのスマートフォンのような通信装置であるならば、それは電波を使って通信されるものなのだろう。アークの大きさからすると、そんなに技術革新は進んではいなかったようだが、数百年の間使用に耐えたことからすると、工学技術は並大抵ではない。また時には光を発して、近づく人間を撃ち、感電死?させられるパワーを内蔵している。そのアークを置いて、遠距離から祭司の言葉を聞き、それに回答を与えるというのは、まるで衛星放送を利用して地球の裏側の専門家がインタビューに答えているようなものだ。現代ならあたりまえのことだが、この古代の世界では想像を絶することで、まさしく神のすることなのだ。
それではこのヤハウェという専門家は、いったいどこから通信に答えていたのだろうか。いやそれよりも問題なのは、どうして遠距離通信しなければならないのだろうか。姿を現して、あるいは幻影のようなものでも現して、直接指導すれば良いのではないか。現にシナイ山ではそれをしてきたのだ。だが、それではどうしてもまずいことがあるのか、それともその都度カナンへ出張するのは面倒だというのか。
かといって数百年もの間、姿を見せずにアーク通信で済ませよう、というのは理解しがたい。ということは、ヤハウェの住んでいるところは、日帰りでカナンへ出張できるような距離ではないのではないか。地球のどこかに本拠地を持っていれば、数百年もの間接触を試みないように逼塞することもないだろう。地球内部に空洞世界が存在し、そこに棲息していたとしても、同様だろう。では地球ではないとすればどこだろう。月世界なのか、あるいは火星だろうか。それとも太陽系の惑星などではなく、数十光年を隔てた銀河の中の恒星のいづれかなのだろうか。
だがアークで電波通信する以上、数十光年も離れると、地上の祭司との間で通信自体が成り立たなくなる。太陽系内でも、せいぜいで月ぐらいまでではないだろうか。そうすると、考えられるのは、地球のおもてか、あるいは地球の中、または月世界など、地球の周辺地域に生息地はあるのだが、時々にしか出て来れない事情がある、ということだ。それはいったいなにか。
考えられる試案を挙げてみよう。
@ヤハウェとそのグループは地底深くのどこかに潜んでいて、自由に地上を闊歩できないのではないだろうか。それはつまりヤハウェたちに敵対する勢力によって、押し込められている状況にあるのではないか。そこで地上に出て来て活動するためには、人間からの「呼び出し」が必要条件になっているのだろう。アブラハムもモーセも広い意味で、この呼び出しをしたのではなかろうか。
それで彼らにとって地上は、太陽からの紫外線や光線が強すぎて、長時間の活動が困難なのだろう。それでできるだけ太陽の下へ出向かないために、アークを利用しようとしたのだろうか。
Aアブラハムからモーセへ、数百年も隔てて先祖の事跡を追想しながら、話しかけてくるというのは、このヤハウェには、地上での時間経過の感覚があまりないのではないか。つまり彼の棲んでいる世界では、時間というものがなくて、彼は人間世界のどの時間帯にでも出現することができるのだろう。つまり、地球と並行して存在する異次元宇宙の存在ということであろうか。
その異次元宇宙というものが一体どういう性質を持っていて、どういう物理的法則の許で動いているのか、全く想像も及ばないところだが、それは人間の霊体が死後に活動する場所でもあるのだとすると、まさしくオカルトの世界になってくる。
Bヤハウェとその仲間は、寿命を永遠にまで延ばすために、どこかで長期の冬眠をしているのではないか。例えば月世界の内部とか地底内部で、数百年を冬眠してやり過ごし、再び目覚めたらそこから活動を開始して、人類に干渉をするのだろう。また冬眠中は、地上世界の監視と保守要員として、UFOとその中のロボットに地球を預けるのではないか。
アブラハムに臨んだヤハウェの神の特徴を再点検し、その正体を探る
紀元前2千年期のある日、トルコ南東にあるシリア国境に近いハランの町の郊外に、メソポタミアのウルから逃れてきたアブラムの家族が寄留していた。ある年の7月、雨がいつ降るのかを知るために、アブラムは夕暮れから明け方まで、星を観察しようと夜明かしした。すると彼の心に働きかける声があったので、彼は、『わが神よ、私の神はあなただけです。わたしはあなたとあなたの主権を選びます。』と無条件の帰依を願い出た。すると「見知らぬ神」の言葉が彼に送られた。『さあ、君の土地、一族のもと、父の家を出て、私が示す土地に行くが良い。わたしはきみを大民族にしてやろう。わたしは君の子らの、すべての子孫の神となる。これよりのちわたしはきみの神である。』、それから6ヶ月の間、神の使いがアブラムに、先祖たちから伝わる書物の内容を書き写させ、その内容をぜんぶ教えた。」と伝えられている。
こうして神の庇護を約束されたアブラムは、すでに75歳の高齢になってはいたが、指し示されたカナンの地を目指して、妻サラと甥のロトと使用人に加え、財産の羊や牛とともに、旅立った。中東街道を行き来する商人たちの情報によれば、そのカナンの地は緑豊かな土地で、海沿いにペリシテ人などがいるものの、内陸部は比較的住民も少なく、民に過酷な暮らしを要求したりする強力な王権は存在していない、ということから、大きな期待を抱いて遥か1千キロ近い旅路を辿って、約束の地であるカナンへ南下したのである。ところがカナンにたどり着いてみると、そこには人が大勢住み着いていて、とてもアブラムたちが自由に遊牧し、永住できるようなスペースはなかった。そこでしかたなく最南部のほとんど砂漠に近いような荒野のネゲブに寄宿するはめになった。
こうした実情からすると、「名もない神」のあの「私の示す土地に行きなさい」という台詞はなんだったのだろう。もっとも正確に読むと、「カナンの土地をあなたに与える」、とは言っていない。「あなたの子孫にこの土地を与えます。」といっている。それも数百年後に、地域住民を皆殺しにした上で切り取れ、ということなのだ。
野原で、夜通し星座を探勝していた遊牧民のひとりの家長、アブラム。その彼に現われた「名もない神」とは、それはいったい何者なのだろうか。そこでまずその実体を知る前に、この神の出現の状況から調べてみよう。
アブラムに最初に現われたときは、真夜中の畑か野草地であり、それもアブラムの熱心な祈りに答えるように「現われて言った」。この現われるというのは、「見られた」という意味だという説がある。他方「偽典」では「心に働きかける声」であった、ということだという。この神の、おぼろげなりでもその姿は、アブラムは書きとめていないので、このときは、テレパシーのように心へ直接働きかけるものではなかったか。
次にアブラムに現われるときは、ソドムに向かうロトと分かれたときで、「目を上げて東西南北を見渡しなさい、あなたが見渡す地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます。」と告げる。
3度目は、「幻のうちに主の言葉が臨んだ」とあり、これも直接姿を現したのではなく、心に働き変えたものだろう。この3度目の中で、神はアブラムに犠牲を用意させ、それを夜の暗闇になったときに、神自身が「煙の立つ竈、炎の出る松明で、犠牲の間を通り過ぎて、」契約の印とした。この神は、極度にその姿を見られることを警戒していて、暗闇が支配する夜でなければ、行動を起こさない。
4度目だが、99歳のアブラハムに現われたときには、アブラムはひれ伏した。割礼の命令などがあって、アブラハムと語り終えると、「彼を離れて、のぼられた。」とある。このときは、どうもテレパシーなどではなく、実際にその姿をもって現われたような記述である。ただ、その姿の記録はないので、霊体のようなものがそこに存在した、というようなことなのか。
5度目の出現は、「主はマムレのテレビンの木のかたわらで、アブラハムに現われた。それは昼の暑いころで、目を上げてみると、3人の人が彼に向かって立っていた。」という状況で、ここで初めて神が日中に人の前に姿を現したのである。3人いたのは、主とみ使いで、いずれも「人」の姿であった。ヤハウェたちは、夢の中や幻覚ではなく、天幕の入口に座っている老人・アブラハムの前に、いつのまにか佇んでいて、じっと老人を見ていた。そして老人の申し出を受けて、彼らはアブラムに接待されて、牛乳と子牛の肉料理、そしてパンを食べて食事とした。また、別の離れたテントに居たサラの心のうちを読み取った。また食事後は立ち上がって、ソドムのほうに歩き出し、アブラハムと立ち話をすると、分かれて去って行った。アブラハムによる、この「主」なるものの、姿かたちについての記述は、ヒントも含めて全くない。これだけ詳細に記録を続けている中で、主人公の「主」なるものが、二人のみ使いを連れて現われたとなれば、自分と子孫の偉大な神を、その素晴らしい「お姿」を書き残そうとするのは必然ではないか。それがなんの記述もなく、実にそっけない。また、サラは遠くからそれを見つめ、自分のことに話しが及ぶと、せせら笑っている。
6度目のときは、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。このとき神はアブラハムに、イサクを犠牲に捧げるように命じるのだが、この神に答えるアブラハムの返事に注目したい。「ここにおります」と返事をするというのは、どういう状況だろうか。
神が一段高いところの玉座に立っているように出現した場合、神からアブラハムは見えて、それで呼んでいるのだから、その神を見上げるアブラハムの答えは「はい」ではなかろうか。ところが神が見えない存在であり、どこか天空から呼びかけてくるような場合、神もアブラハムがどこにいるのか分からないだろうと思い込んで、そこでアブラハムは「ここにおります」という答えをするのだろう。
つまりこのときの出現は、天空から姿をみせずに呼びかける存在なのだ。イサクを薪の上に縛りつけ、火を放とうというときに、主の使いが「天から彼を呼んだ『アブラハムよ』彼は答えた『はい、ここにいます』」やはりこのときも神は、またみ使いは、「天から」彼に話しかけている。そこでアブラハムは、ここに居ます、と答えるのだ。
5度目に現われた「人」の姿をした「み使い」のときを除いて、アブラハムに現われる神ヤハウェは、常に天空から声を掛けてくる存在であり、ヤハウェ自身の姿は現さないようだ。だが、その代理人のように、み使いが時には直接姿を現し、人間のように食事もし、歩き回るのだ。しかもその姿は人間とはどこかが違っていて、一目で主なる神のみ使いである、ということが分かる存在であるのだ。その姿は次のようではないのだろうか。
○ 一目見て、「主」または「主の使い」だと分かる特異なところがあるが、一応、人間のすがたをしている。
○ 人間のように、食事をし、歩き、怒る。
○ 「使い」も「主」も姿に変わりはなく、さらに「主」もその言葉の中に「主」という言葉を使っている。どうもこの「主や使い」 なるものは、金太郎飴のように、どれもが「主」と呼ばれたり、「み使い」と呼ばれている。例えば、主はアブラハム に言われた「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を生むことができようかと言って笑ったのか。主にと って不可能なことがありましょうか、・・」この文章の2回目の「主にとって」というのは、自分自身ではなく、別に存在 する「尊敬すべき主」を指しているようだ。
ということは、つまり「主なる神」も「み使い」も、すべて「主であり、み使い」である、という可能性がある。この場合の「 主なる神」というのは、彼らみ使いにとっての「我々集団の総意」といった存在であるか、または天界の頂点で君臨す るとてつもない万能者であり、地上に現れたみ使いひとりづつは個別的存在ではなく、その「総意または万能」によっ て動かされる手足のようなものなのだ。しかしその彼らが話す言葉は、「主」の言葉になるのだ。これは彼らが独立し たものではなく、「主なるヤハウェ」を構成するものの一部分ということではないだろうか。
○ ところで、アブラハムはヤハウェを見慣れているのだろうが、サラは天幕の中にいて、この3人をもてなすために出て こない。これは遠慮するといったものではなく、気持ち悪くて近寄らないためではないのか。その「主」の話をせせら 笑ったのは、「言っている話の中身と、その神たちの姿かたちが不釣合いだから、つい笑いがこみ上げた。」という意 味合いもあるのではなかろうか。
○ アブラハムが「主」に向かって、ソドムでの虐殺を止めさせようと説得する言い方は、至高の者に対するよりも、「言葉 は尊敬語なれど、目下に対するような気迫」が感ぜられる。すなわち、相手は神そのものなのだが、アブラハムより も「小さくて」「貧弱な存在」だったので、アブラハムとしても対等以上に話せたのではあるまいか。
そうしたことを総合すると、この「主」なるヤハウェの一部を構成する「み使い」というのは、比較的小さな、ヒューマノイド型の生物で、テレパシー能力があり、食事をとり、手を差し伸べて何らかの霊力を投げることができた。また、このみ使いには、人間のように表立った個性はなく、「中央制御室または全体総意」からテレパシーで指示され、行動する存在のようではなかろうか。
アブラハムの孫で神と相撲をとったヤコブの話しでもそれが感じられる。
ヤコブはヤボクの渡しで妻子を渡らせ、自分は最後に残って川を渡ろうとした時に、『ひとりの人』と遭遇し、夜明けまで組打ちをした。その人はヤコブに勝てないのを見て、もものつがいに触ったので、(ヤコブの)それがはずれた。その人は言った「夜が明けるからわたしを去らせてください」ヤコブが拒否すると、その人は「あなたの名はなんと言いますか」というので「ヤコブです」と答えると、その人は「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」そこでヤコブは「あなたの名を知らせてください」と言ったが、その人は「なぜあなたはわたしの名をきくのですか」と言ったが、その所で彼を祝福した。そこでヤコブはそこをペニエルと名付けて言った「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」
この話でも、み使いは「どうして名前を聞くのか」と不思議そうに聞き返している。人間には名前がそれぞれあるのを知っていて、それでも自分たちには名前がないということが、不思議ではないのだ。それは自分が「神そのものであって、名前は必要ではない」ということなのか、それとも「自分は神の一部であり、独立した存在ではない」ということなのだろう。
そしてここでもまた、この神のみ使いは、「夜が明けるから帰らせてくれ」と言っている。日の光が射し込む朝になると、み使いは「都合の悪いこと」になるのだろう。それはみ使いの本当の姿を見られてしまう、ということではないのか。
ヤハウェは何をエネルギーにしているのか。犠牲の家畜の肉や血を吸収してはいないか。
ノアの洪水が終わったとき、ノアはヤハウェの神に対して、獣と鳥を焼いた燔祭を捧げた。するとそこにヤハウェがやって来て、人間には姿を現さないまま、その香ばしい香りを嗅いで、もう2度とこうした無茶はしない、と心で誓った、という。そしてノアたちに「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。」と宣言する。その中には「すべて生きて動くものはあなたがたの食料となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない。」とする言葉がある。
これらの文章を読むと、ヤハウェは肉を焼いた香ばしい香りに惹かれるようだ。そして人間には、その肉を血まみれの生のまま、食べることがないように、注意をした。「肉は血を抜いてよく焼きなさい。その匂いはなんとも言えずに美味しいから」
またあるときヤハウェは、天幕の入口に座っている老人・アブラハムの前に、いつのまにか佇んでいて、じっと老人を見ていた。そして老人の申し出を受けて、パンや肉、牛乳の食事に手を出して食べ、離れたところにいたサラの心のうちを読み取った。また食事後は立ち上がって、ソドムのほうに歩き出し、アブラハムと立ち話をすると、分かれて去った。ここでは人間と同じように食事をしてみせたのだ。
また、モーセにたいしては、「その雄羊を切り裂き、その内臓と、その足とを洗って、これをその肉のきれ、および頭と共に置き、その牡羊を祭壇の上で焼かねばならない。これは香ばしいかおりであって、主に捧げる火祭である。」「当歳の小羊2頭を毎日絶やさず、ささげなければならない。わたしはその所であなたに会い、あなたと語るだろう。」「牛の初子、羊やヤギの初子は聖なるもので、その血を祭壇に注ぎかけ、その脂肪を焼いて火祭とし、香ばしい香として、主に捧げなければならない。その肉はあなたに帰する。さらに、ヤハウェはモーセに言った「あなたがたは香ばしいかおりとしてわたしにささげる火祭、すなわちわたしの供え物、わたしの食物を定の時に、わたしにささげることを怠ってはならない。」
ヤハウェもまた生きているものである以上、何らかのエネルギーを必要とする。人間のいない地下か天上では、どういうエネルギーを受けているかは定かではないものの、こうした焼肉の香りへの強いこだわりを見ると、こうした「香り」の中にもエネルギーが凝縮しているのではなかろうか。そのために、盛大な焼肉祭礼を求めるのだろう。それも半端なものではなく、毎日毎日決められた数を執り行うように要求する。イサクの言葉には、ヤハウェに捧げる焼肉をするときは塩を振って味を付けなさい、というのがある。これはヤハウェが肉そのものも食することを想定したものだろうか。
さらに、焼肉にするときには犠牲の動物から、その血と脂身は必ず取り除くことを求めている。だが、一方ではそれを祭壇に注ぎ込め、とも要求する。一頭の牛を屠殺すると数十リットルの血がほとぼしる。それを受けて、水路を巡らし受け止めておく設備が、祭壇に刻まれていた。その血がどう処理されたかは知らない。そうしたことを処理して世話をする専属のガードマン兼召使いが、レビ人(モーセもアロンもその一族)であった。そしてこうした幕屋に囲まれた祭壇に、ヤハウェは濃い霧をまいて時々は臨んだのだが、その姿を見たものは「死ぬ」ということになっていた。死ぬということは、即ち「殺す」ということで、そうした事故が起きないように、幕屋のうちに現れるときは常に雲が立ち込めて、見られることがないように気づかっている。では、現われたヤハウェは何を食べたのだろうか。捧げられた焼肉は、すべて祭司たちに払い下げられた、と記されている。とすればヤハウェの目的は、残された「血と脂身」にあるのではなかろうか。とすれば、家畜動物の血や脂肪を食料とし、その焼肉の匂いをエネルギーとするヤハウェという生き物の正体はいったいなんだろうか。
ヤハウェはまた、どんな姿でイスラエルの民に現われたのか
ヤハウェがアブラハムやヤコブに現われた姿は先にまとめたが、どちらかというと柔弱そうな、人間に良く似た姿型で、普通どおり食事を取り、人間と同じく歩いて目的地へ行くのだった。その後、出エジプトを始め、ヨシュア記などにも頻繁にヤハウェは現われるのだが、その姿は序々に変化してくる。
出エジプトでモーセがヤハウェと最初に遭遇するのはホレブの山で、「ときに主の使いは、しばの中の炎のうちに現われた」そして柴は燃えているのになくならなかったので、側へ近づき確かめようとしたときに、「モーセよ、モーセよ」と神は柴の中から呼んで、「ここにいます」と答えたモーセに、「ここに近づいてはいけない。足から靴を脱ぎなさい。あなたが立っている場所は聖なる地だからである。」と声をかけた。
このときモーセは神を見ることを恐れたので、顔を隠したため、神の実像は見ていない。もっともヤハウェは燃える柴の向こう側にいて、最初から姿を見られないように気をつけている。
ヤハウェのこのときの演出などは、現代の我々からすると、まったくの「子供だまし」程度ではなかったか。プラスチックの大きな模型で柴を型とり、中に炎色が映える点滅蛍光灯を置いて、拡声器を仕込めば出来上がり!確かに「モーセよ、あまり近づくな、触ったら壊れるぞ。」
このことがあって直後に、エジプトへ向かって家族で移動していたモーセに、「主は彼に会って、彼を殺そうとされた。そのとき妻のチッポラは小刀で息子の包皮を切り、それをモーセの足につけて、「あなたはわたしにとって血の花婿です。」と言ったので、ヤハウェはモーセを許した。」という事件が起きた。チッポラは息子の包皮を、モーセの足ではなく、性器にくっつけたのだろう。そして間違いなく割礼をしていた証拠として、その包皮をヤハウェに見せたのだ。ということは、モーセはイスラエル民族に義務とされる割礼を受けていなかったということだ。そして、ヤハウェがモーセを追っかけてきて、殺そうとまでしたのは、モーセがイスラエル民族の出自でないことに、後から気付いたということに間違いない。
ではこのとき、モーセ夫婦は自分たちを殺そうと迫ってくるものの姿を、確かに見たのだろうか。勿論両者が出遭わなければ、この話は続かない。旅の途中で、夢の中で迫った、あるいは声だけで迫った、などであれば、チッポラの必死なかばい立てなどは生まれない。確かに、目の前にヤハウェが現われ、モーセを問いただしたのだ。モーセが割礼していないのを知っている唯一の存在は妻である。モーセが返答に苦しんでいるのをみて、チッポラはとっさに行動を起こし、手に入れた包皮をモーセの下着の中へ入れて、そこから取り出して、これこのとおりです、と演技したことで、ヤハウェは納得せざるを得なくなったのだろう。
そのときのヤハウェを、モーセもチッポラも確かに見たのだ。ではそのヤハウェはどんな姿だったのか。どこにもそれは書かれていない。しかしその姿は、人間にとってとてつもないものではなく、ごく平凡で常識的な一般の人間に近いものではなかっただろうか。何も書かれないということは、書くほどの特徴はなかった、ということではないだろうか。
イスラエル民族の出エジプトに成功し、彼らを連れて再びホレブの山に戻ってきたモーセだが、山にいる神ヤハウェの指示で、民族の長老たちを連れて山に登った。そして「彼らがイスラエルの神を見ると、その足の下にはサファイアの敷石のごときものがあり、澄み渡る大空のようであった。神は イスラエルの指導者たちを手にかけられなかったので、彼らは神を見て、飲み食いした。」
長老たちが自分たちの神を見たとき、ヤハウェは大きな、青く輝く大空のようなものの上に、立って「いた」という。彼らが飲み食いする間、ヤハウェはじっと立ちっぱなしでいたのだろうか。そうではなくて、立っていたものは、何かの像だろう。それは飾りではないのか。肝心なのはその舞台のような、青く輝くサファイアの敷石のごときもの、である。それはじゅうたんを意味しているのか。澄み渡る大空、という表現からすると、立体的な円盤状の青く輝くものではなかっただろうか。そうすると、これはUFOではなかろうか。とすれば、ヤハウェはその内部に座って、モニターで長老たちを監視していたのではないか。
ヨシュアもまた、神の使者と遭遇している。ヨシュアがエリコの近くにいるとき、目を上げてみると、一人の人が、抜き身の剣を手に持ち、こちらに向かって立っていたので、「あなたはわれわれを助けるのですか、それとも敵を助けるのですか」と問うと、その人は『私は主の軍勢の将として今来たのだ、あなたの足の靴を脱ぎなさい、あなたが立っているところは聖なるところである。』と言い、エリコを降す方策を告げた。それはエリコの町の周りを、毎日ラッパを吹いてめぐり、7日目には7回巡って、「呼ばわりなさい」という方策で、それによってエリコの城壁は崩れた。
ヨシュアは未だヤハウェやその使いを直接見てはいない。それで最前線の近くで突然、抜刀した使者を見たならば、普通は敵か味方かを、その相手に問うことはないだろう。そこであえて問はなければならないほど、何か異常なものを感じたのに違いない。それは姿型か、装備か、あるいは表情か。それをみた時には、それがとてもヤハウェやその使者とは思えないものだった。そしてここでもその使者は、自分の前では靴を脱いで畏まることを求める。もともとその遭遇の地点が聖なるところではなく、使者がいるその前が聖なるところだというのだろう。そこで畏まったヨシュアに秘策を授けたのだ。
また、士師記2章では、イスラエルの各族がカナン侵略において、町を攻め取っても住民を虐殺せずに、強制労働に従事させるなど、残虐な行為を控えるようにしたところが、そこへ主の使いが、やってきて言った「わたしはエジプトからあなたがたを連れてきて、この国の住民とは契約するな、彼らの祭壇を壊せ、と命じたが、あなた方は従わないのか。」と、征服住民を追い出さずに、虐殺しないで、共存しようとしているイスラエルの「新世代」にクレームをつけている。
さらに、主の使いがきて、テレビンの木の下に座して、ギデオンと語ったとき、ギデオンは「私と語るのがあなた(神)であるというしるしを見せてください。」そこで神の使いは、『肉と種入れぬパンをとって、この岩の上におき、それにあつものを注ぎなさい』ギデオンがそのようにすると、主の使いは、手に持っていたつえの先を出して、肉と種入れぬパンに触れると、岩から火が燃え上がって、それらを焼き尽くした。そして主の使いは見えなくなった、という。
これらの中で語られる主の使いというのは、ごく普通の人間の姿であり、特別な姿をしていないようだ。それでギデオンも、本当にヤハウェの使いなのか、疑問に感じたのだろう。そのあとで、杖を火炎放射器のようにして食物を焼き尽くす、というのはアブラハムにも見せた芸当で、このヤハウェたちはそこでもあまり進歩の跡は見られない。
しかし一方では、マノアという女に、主の使いが現れたとき、「神の人が私のところに来ました。その顔かたちは、神の使いのようで、たいそう恐ろしゅうございました。」そこで夫は、直接自分たちに臨んでくれるように願った。使いは再び現れた。マノアがその使いに名を尋ねると、「私の名は不思議です。どうしてあなたはそれを訪ねるのですか。」そして使いは、マノアが岩の上で燔祭を捧げた時に、その炎のうちにあってそこから天に昇った、という。
マノアが見た「恐ろしい顔かたち」というのはどんなものだろうか。そしてそれが、神の使いにふさわしいものだった、というのだ。とすれば、その頃こうした民衆の間では一般的に、神またはその使いというのは常人と違って、「恐ろしい顔かたち」なのだ、ということが常識になっていたのではないか。とすれば、ギデオンに現われたものと、マノアに現われたものは、違うものなのか、それとも同じものなのだろうか。
ヤハウェはまた、預言者を通じてヤラベアムに、ソロモンの支配しているイスラエルの12部族のうち、10部族を裂いて与え、一つの国を興すことになると告げた。そしてそのときがきて、ヤラベアムはイスラエルの国を立てたのだが、民が皆エルサレムへ巡礼するため、いずれソロモンの残したユダの国の支配者レハベアムに帰属するようになっては困るというので、民に二つの金の子牛を造り、「あなたがたはもはやエルサレムに上るには及ばない。あなたがたをエジプトから導き上ったあなた方の神を見よ。」と宣言し、礼拝した。
ここでまた、ヤハウェの姿は金の子牛になっている。しかも2頭。勿論ヤハウェはこのことを怒り、「神の人」を使いしたりして、王の一族を滅ぼす予言を与えたのだが、しかし、イスラエルの民たちは、懲りもせずになぜ金の子牛に執着するのだろうか。このあと、エゼキエル書に入ると、神ヤハウェの幻は、限りなく金属的になってきて、ロボットのような、あるいはコンピューターグラフィックで製作した像のようなものになってくる。
「天が開けて、神の幻を見た。見よ、激しい風と大いなる雲が北から来て、その周囲に輝きがあり、絶えず火を吹き出していた。その火の中に、青銅のように輝くものがあった。その中から、4つの生き物のかたちが出てきた。人の姿である。(ケルビムである。)おのおの4つの顔をもち、4つの翼があった。 足は真っ直ぐで、足の裏は子牛の足の裏のようで、青銅のように光っていた。翼の下に人の手があった。前方に人の顔が有り、右に獅子の顔、左に牛の顔、後ろに鷲の顔をもっていた。ふたつの翼は高く伸ばされ、頭の上で連なり、その上には水晶のように輝く大空の形が広がっている。行くときは大軍のような大きな音がして、止まるときは翼をたれる。この大空の上に人の姿のような形が有った。その姿の腰より上には、青銅が囲んでいるようだった。その姿のまわりには輝きがあった。
また二つの他の翼は身体を覆っていた。この生き物の中には、燃える炭火のようなものがあり、たいまつのように生き物の中を行き来している。その生き物のかたわらに、地の上に輪があった。・・」
そしてこの大空の上にいる神の人は、亜麻布の衣を着て、金の帯を腰に締めていた。その身体は緑柱石のごとく、その顔は電光のごとく、その目は燃えるたいまつのごとく、その腕と足はみがいた青銅のように輝き、その言葉は群集の声のようであった。
エゼキエルの見たものは、幻だということだが、それだとヤハウェの真の姿を示してはいないのではないか。白昼に、大勢の人が廻りにいた、という状況で、エゼキエルは膨大な幻を見ている。とすれば、これはエゼキエル一人へ向けての、ヤハウェからの映像投射、といったものではなかろうか。その映像の中では、空中に浮かぶ物体が現われ、それに4匹の生物彫像が取り付けられている。その上には透明の半円球のおわんのようなものが被せられていて、そこにロボットのような者が立っている。
ヤハウェの実体には迫れないが、しかしこうした空中浮遊体は、現代のUFOの前身状態に近いようだ。ジェット噴射(?)の筋が確認されたところをみると、初期のものだろう。このおわんを被せた空中浮遊物体というのは、モーセたちに現われた「澄み渡る大空」というのと、似通ったところがある。7〜800年を経過していても、あまり進歩していないようだ。
物質を利用した科学力の発展では、進歩のスピードはほとんどなさそうだが、彼らには物質力を補って余りあるくらいの、テレパシー能力がある。遠方から特定の人間の頭脳へ、何かのイメージや言葉を送り込む双方向通信力は抜群だ。その力で、人間の一部支配者を、コントロールしてきている。ただこれは、受信する人間に、ヤハウェへ帰依する意思が存在しなければ、難しいようだ。もしすべての人間をコントロールできるというのならば、あえてイスラエルの民を選ぶ必要もない。これは現代の新興宗教にもあてはまることで、教祖やその文献に帰依した人間に対しては、マインドコントロールが可能となる。敵視する者には、マインドコントロールは通じない。敵対者に対しては迫害するか、排除するしかない。イスラエルの民がカナンへ入って、他民族を虐殺し続けたのは、ヤハウェという悪魔によるマインドコントロールの下での所業ではなかろうか。そしてそれは、2,500年を隔てて、今も続けられているのではないのか。