創世記は第2章に入ると、それまでの「エロヒム(神)」から、「ヤーウェ・エロヒム」となっている。そのヤーウェが神の固有名詞なのだろうが、神名を直接口にするのは恐れ多いので、「アドナイ(わが主)」と置き換えて、呼ばれるようになった。そこで日本語訳では、ここからはヤーウェ神を指して、「主なる神」と表現している。そしてこのヤーウェが登場するものは、ヤハウエスト資料とされる。また先の、エロヒムの登場する資料は祭司資料として、それぞれ別個に成立したものだと分析されている。そのうち、ヤハウエスト資料のほうが古く、およそ紀元前1000〜1200年前まで遡るが、祭司資料は紀元前5〜600年前のバビロニア捕囚時代に書かれたものだという。
つまり言い伝えとしては、この「主なる神・ヤーウェ」の話が先に伝わっていたということだ。おそらくヤーウェ資料を基に聖書を綴ろうとしたのだが、どうも最初の世界創造については、分析・洞察が足りず、いまいち説得力に欠けると判断して、そこでバビロニアに云い伝わる世界創造伝説を取り込もうとした、ということだろう。
また、このヤハウェの名前については、ヤハウェ自身が名前を呼ばれることを頑なに拒み、「われはあって有るもの」というものだ、と言ったりしている。また偽典「モーセの黙示録」では天使たちが神を「イアエル」と呼んでいる。さらにアブラハムの妾のハガルは荒野の中で、神に「エルロイ」と呼びかけている。このうち、「エル」というのはシュメールで言う「○○神」の神に相当するものなので、実際の神名はイアであったりロイであったりする。
前14世紀のウガリット王国(現在のシリアアラブ共和国の地中海沿いの都)で出土した粘土板には、旧約聖書の文体とよく似た類似文体(対句法)が見られる。そのウガリットでの神は、エルとその妻アシェラ、バアルと妻アナト、そしてダゴンといった神名が出てくる。一方イスラエルにもエルが含まれているが、この場合は「エルが支配する(あるいは、エルが戦う)」という意味合いになる。つまり、「神が支配し戦う」、ということになるようだ。そこでここからの記述では、「主なる神」という表現のままではなく、実体に近づく意味で、ヤハウェとそのまま呼んでゆくことにする。
さてこの2章からは、ヤハウェが「土のちりで人を造り、命の息を吹き込んだ。それをエデンの園に置き、園を耕させ、守らせた。・・また、人から1本のあばら骨を取り、女を造った。」というアダムとイブの創造の場面が展開する。
「主なる神」は土のちりで人を造り、命の息を吹き込んだ。それをエデンの園に置き、園を耕させ、守らせた。それから「主」は全ての獣と鳥を造り、人に「名前をつけさせた」。また、人から一本のあばら骨を取り、女を造った。
ここで創造された人というのは、地球に散らばっているほかの大勢の人間とは別物なのだろうか。どうもこの表現では、ロボットを作るように材料を合成して構築し、そこに電気か息吹を注入して立ち上がらせたようなイメージである。しかし偽典ヨベル書では、「アダムが創造された土地で40日が満ちてから、われわれは彼をエデンの園へ導きいれ、その手入れと管理をしてもらうことにしたが、彼の妻は80日目に連れてこられた。」とある。つまりアダムもイブも他所に居て、それをエデンに連れてきた、といっているのである。その目的は、エデンの園の手入れと管理、補修要員ということになっている。
エデンの園というのは、理想郷の園であった。園の中の泉から水が流れ出して川となり、園を巡ってやがて外へ出て、4つの川に分離していた。その一つはナイル川であり、またユーフラテス川でもあった。ただし、現実のこの2つの川は、源流が全く正反対にあり、流れる方向も違う。ともあれ、そのエデンの園は「見て美しく、食べるに良いすべての木が生えていて、中央には善悪を知る木と命の木が生えていた。・・また、野のすべての獣と、空の鳥と、すべての家畜が連れてこられ、アダムがそれぞれに名前を付けるのをヤハウェは見た。」
第1章の神は、エデンの園をつくらず、人間を全地に散らばらせたようだが、この「主」は人を園に隔離し、耕作と保守をさせている。なにか「労働用ロボットまがい」の役割のような感じだ。また、この人というのは、「名前をつける者」であって、エバから始まる家族子孫の名前をつけるのだが、自分の名前は最後まで出さない。第4章の最後にようやく誰がつけたのか、突然名前が記される。
どうもアダムというのは、「最初の神々」が造った人間たちの中から、「主なる神ヤハウェ」が、自分たちの植物園(兼)動物園の管理と補修をさせるために連れてきた男性で、ひょっとすると複数ではないだろうか.。(創世記5-1)では、(神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福して、その名をアダムと呼ばれた。)と複数になっているが、翻訳の間違いだろうか。それとも創造したのは幾体もの人たちで、それらを総称してアダムと呼んだのだろうか。
またアダムたちは、園の中では素裸で過ごしている。男と女はそれぞれ居住地区が分けられ、これは収容されている動物全般がそうだが、雄雌が接触できないようにされていた。イブの言うには、「わたしたちが楽園を守っていた頃、わたしたちはおのおのの部分を守っていたのでした。私は南と西を守っていました。悪魔は、雄の獣たちがいたアダムの分け前のほうに行きました。(モーセの黙示録15,)となっている。女と性交渉をすることも知らず、知能的にはかなり劣った、ロボトミー状態のようである。楽園とはいうが、素裸で、暖冷房の効いた園内に、様々な実を実らせ、それを採って食べるのが日課の毎日というのでは、これは楽園ではなく、動物園の中で飼育されているような状況である。
偽典ヨベル書 2.〜3章では次のように記されている。.
「6日目には地のすべての獣と家畜、および地上を動くすべてのものをつくられた。これらすべてのことののち、彼は一人の人間を作られたが、これを男子と女子としてつくり、地上と海中にあるすべてのもの、すべての飛びかけるもの、すべての獣と家畜、地上を動くすべてのもの、および全地を支配させられた。」
「アダムが創造された土地で40日が満ちてから、われわれは彼をエデンの園へ導きいれ、その手入れと管理をしてもらうことにしたが、彼の妻は80日目に連れてこられた。」
「彼(神)はエデンの園にいた肉なるもの(獣と家畜、鳥など)をすべて追い出され、おのおのすべてその種類および性質に応じて、そのために創られた場所に散って行った。アダムにだけはその恥部をおおうものをあてがわれた。異教徒たちのように、露出させないように命じられているのである。
ここではほかに異教徒がいて、その連中は恥部を露出するような未開拓なものたちだった。ヤハウェはその連中とアダムたちとはレベルが違うことをしめすのに、パンツのようなものを用意してやった、と書かれている。ということはやはり、ほかに大勢の人間たちがあちこちにいたのである。
数百万年の前から、人類は活動していたが、どの時代でも素裸ということはなく、すでに衣類を身につけていた。世界中に人類が生存して、繁殖しながら陸地づたいに、マンモスを追ったりして拡大していたことだろう。ホモサピエンスが誕生してからこの方、こうしたロボトミー状態のときはないのではないか。「本当の神」が創造したように、人間は男と女に造られた、のである。それがなぜ素裸で、動物園の中で過ごしているのか。・・・しかしこれと良く似た事例がある。サファリパークがそれである。いろいろな動物が、そこかしこに配置され、それぞれのエリアに分類され、果物などを常時手にとって食べられるようにしておく、その中のひとつのつがいが人間だったのではないのか。それで、知恵のある普通の人間の状態では、他の動物のように素直にそこにいないから、ロボトミー状態にして、放し飼いにしていたのではないか。どうもここに鍵が隠されているようだ。
推論をさらに発展させると、このエデンの園というのは神々たちによる動植物観察舎で、収容されている動植物の生態や生育状況、それに病気対策、DNAでの各種実験なども行える場所として利用されていたのではなかろうか。そこにアダムたちが、ロボトミーされた上に労働力として利用されたとすれば、いくら園内の環境が豊かであっても、これは人間に対する犯罪行為ではなかろうか。もっとも、この園の所有者はアダムたちを、イナゴと同列に見ていたとすれば、何の呵責も感じないだろうが。
だがそこへ、神々の一員であるルシファー氏が訪れ、アダムとイブを見て、「これはいかん、こうしたやり方は動物虐待だ。」として、人間としての意識を取り戻させる“薬”(善悪の実)を与えた。それを知った園の所有者で、神々の指導者ヤハウェ氏は、勝手に園の中の対象物を操作したことに激怒し、ルシファー氏を責め立てたが、もともとヤハウェ氏の方針が間違っているので、それ以上ルシファー氏に対しては「呪う」以外に直接の処断をすることができなかった。また、こうして知恵を身につけた人間たちは、園内で繁殖したり、園内の秘密を暴き出そうとする可能性が生じたことから、それを恐れたのと、あるいは腹立ち紛れもあって、アダムとイブたちを、元の人間どものように勝手に生きてゆけ、と園から追い出した、というのが真相ではないのか。
ちなみにバビロニアでは、水神のエンキが母の海であるナンムに話しかける物語に、この創造神話に近いものがある。
「母なる神よ、あなたが一番初めに名前を呼んだ被造物が存在しています。神々の・・をその上に結び付けてください。深海のかなたにある粘土の心をこねて下さい。善良で気高い造り手が粘土を厚くするでしょう。あなたは手足を作り出してください。」
エンキが病気になった時ニンフルサグ(豊穣の女神)が尋ねる。「兄弟よどこが痛いのですか。」「肋骨が痛むよ。」「では、あなたのために女神ニンティを産みましょう。」
また、メソポタミアに花開いたシュメールの、最古の歴史的記録である「エアンナトゥム王の戦勝碑文」(前2500年頃)には「・・ウンマ市を武器で倒した。その死骸の塚を20築いた。ニンギルス神のために彼の愛する耕地グエディンナを取り戻した。・・」といった記述がある。ここに「エデン」とよく似た土地の名が登場する。またエンメテナ王碑文には「死骸がエディン(=平原)に残され、死骸の塚を5箇所築いた。」ともある。これらがエデンの園を指すものかは、定かではないが、こうしたシュメールの地名に、伝承の源があるのかも知れない。
アダムとイブが、エデンの園の中の採って食べてはいけないと云われていた「命の木と善悪の木」のうち、善悪の木の実のほうを、「へび」に勧められて口にしたところ、目が開けて、自分たちが裸でいることに気付き、羞恥を知った、という。どこからか連れられてきた男女が、全く羞恥心もなく全裸で過ごしていたこの世界自体が、もともとおかしいのであったが、そこで、「へび」とされる何者かに、善悪の木の実を食べると神のように目が開けるのです、と教えられてそこにあった善悪の実を手にした。すると、たちまちに覚醒して、自分がいかに恥ずかしい状態にあるのかが瞬時に分かった、ということは、エデンの園の「異常性」を現している。
このへんの事情をモーセの黙示録では、もう少し詳しく伝えている。
「へびがイブに言う『わたしは、あなたがたが獣のような状態にあることを悲しく思います。あなたがたにも、あのことを知ってもらいたいのです。さあ、立ち上がり、私の言葉に従って食べなさい。』すると、わたし(イブ)の目が開けて、以前身にまとっていた正義を身に付けていないことを悟りました。」
つまり以前には正義を身に付けていたが、目が覚めたら、身に付けていないことに気付いた、ということは、エデンの園に連れられてくる前には、身に付けていたのだが、今、その実を口にしたら、なんと身に付けていないことが分かった、ということである。ここでいう「正義」とは、「衣服」の誤訳と見てもよいのではないか。そうすると、このエデンにおけるアダムたちに対する神(または神々)の仕打ちが、いかに道理に反したものかが明らかになる。
つまりエデンの園に入る前には、通常の生活をしていたのだが、「われわれに似せて、われわれに象って人を創ろう」とした何者かによって拉致されたアダムたちは、なんらかの手術か薬品処理により、自らの判断や思考を停止させられて、あたかも労働ロボットのように使役され、裸体のままサファリパークの一種類として、そこに生体展示されていた、ということになる。そのとき、別の神々がやってきて、こうした人間に対する措置は、好ましくないと考えて、人間に覚醒する措置を施してくれた、ということではないか。このことがボスと思われるヤハウェたちに知られると、ヤハウェたちはその措置をした連中を、「呪われたへび」として罵詈雑言を浴びせ非難する一方、もう使い物にならなくなったこの人間たちを、エデンの園から追放して再び戻れないように入口を封鎖してしまう。それまでの人間たちへの愛情も、労働への感謝もなく、餞別は皮の衣が一着だけ、という具合だった。そして人間たちが去ったあとの畑を、今度は神々自身が耕した、とある。
しかもヤハウェは「善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」と人間に教えていたが、へびはヤハウェが言うようには「死なない」と説得した。それで勧められるままに取って食べたが、確かに死ぬことはなかった。ヤハウェが言っていたことは、嘘の脅しだったのだ。人間に分からないときには、平然と脅して嘘をつくこのボス、ヤハウェというのはいったい何者か。
これらを俯瞰してこの事件を見てみると、果たしてどちらが人間の味方だろうか。植物園(兼)動物園(兼)ファームの持ち主であるヤハウェにしてみれば、人間の一部をそうして飼育しながらコントロールしようとしていたのに、ヤハウェの不在のときに、へびというか、へび族の親玉がやってきて、その人間たちに要らぬ知恵を授けてしまい、元の記憶を取り戻させたということだ。このへび族の親玉には怒りが尽きないのだが、なぜかへび族を全滅させるようなことはとてもできない力関係にあるようだ。だからひたすら呪っているばかりだ。ただ、残された人間には、その怒りが割り増しされたので、ただちに過酷な現実の大地に放逐したのである。
ここではヤハウェが主なる神で、へび族の親玉は悪魔といわれている、しかしその行為は、へび族の親玉の方が、人間たちにとっては結果的に、救世主となっているのではないだろうか。ヤハウェは、人間たちを単なるモルモットとしてしか見ていなかったのではないか。一方、へび族の親玉は、人間の置かれた悲惨な現実を見て、そこから人間を解放しようとするだけ、人間に対する肯定的なものがあるのではないだろうか。
もし、神と悪魔しかいないのだとすれば、ではどちらが神であり、悪魔なのだろうか。へび族のほうが、人間にとっては、救いの神となっているのであれば、そちらが神であり、ヤーウェは実のところ、悪魔ではなかろうか。といっても、神と悪魔という2極の存在しかいないのではなく、神に近いところから悪魔に近いところまでの幅広い分野での、霊体のようなものがいる、ということならば、へび族のほうが幾分人間に対して慈しみを持っているということだろうか。
もっともこの神と悪魔、あるいは神とへびという対立自体が、ヤハウェの立場から創られた話であり、本当のところは、人間に対する扱いを巡って、それをモルモットとしていたヤハウェをボスとする一派と、自然のままの人間へ戻そうとする反ヤハウェのリーダーとが、存在していたということではないか。
へびは、エデンの園でヤハウェの怒りを買い、彼から呪いの言葉を浴びせられる。
「へびはこのことをしたので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最も呪われる。へびは腹で這い歩き、一生ちりを食べるであろう。わたしは恨みを置く、へびと女との間に、へびのすえと女の末との間に。彼はへびのかしらを砕き、へびは彼のかかとを砕くであろう。」
ここで「へび」と名指しで非難されているものは、爬虫類の蛇を言っているのだろうか。そうではない、蛇が人間に口を利くはずもなく、知恵を貸すこともない。聖書の全編を通じて、動植物が人間と意思を交わす、といったおとぎ話は一切ないのである。聖書を記録した人たちは、大変な賢者であり、偉大な常識人であった。そうした視点から、子供だましの非常識な寓話を残すことはなかった。ただし唯一、この蛇だけは例外である。
考えられることは、このへびは相当に古くからの伝承であり、他のものに置き換えられにくいことがあるのと、この「へび」という表現で、神々の一員である存在を消そうとしたことが、おのずから推測できるので、そのままここに書きとめたということではないか。「へび(族)」は、神々の一員であったのだが、ヤーウェの進めている事業に異論を覚えて、それに反抗したことから、その反抗勢力を指して、「へび」と罵倒したのだろう。そしてそのへび族と人間とは、互いに協力し合わない様に、その間に障害を置きたい、という意味合いではなかろうか。
偽典「アダムとイブの生涯」の13章には、アダムの前に現われた「悪魔」にアダムがなぜ私たちを迫害するのですか、と尋ねて、悪魔が答える場面がある。
「神がおまえの中に命を吹き込み、神の像に似たものとされた時、ミカエルがおまえを連れてきて、神の前で皆におまえを拝ませた。そこで俺はアダムを拝むことはできないと言った。自分より劣るもの、後から出来たものを拝めない。俺の下にいる天使たちもそれを聞いて拝しなかった。するとミカエルはあなたが拝しないならヤハウェはあなたに怒るだろう、と言った。そこでおれは、私に対して怒るならば、自分の座を天の星よりも上に置き、いと高きものと似たものになってやる、と答えた。するとヤハウェは怒って、俺たちはこの世に追い出され、地に投げ出されたのだ。」
これがいわゆる堕天使といわれるルシファーで、悪魔が誕生する発端の出来事だったという。また一方では大洪水が起きる原因として、地上に「人」の暴虐と悪が満ち溢れた、と書かれているが、その時代の話として偽典「ヨベル書」では
「人類が地の表に増え初め、彼らに娘が生まれたとき。主のみ使いたちは、彼女らが見た目に美しいことに気付き、自分で相手を選んで結婚した。彼らは子を生んだが。これが巨人であった。暴虐が地に溢れ、人間から始まって家畜・獣すべてがその道と定めを退廃させ、とも食いを始めた。・・地上に使わされたみ使いたちに対して、ヤーウェは立腹し、彼らをそのいっさいの地位から追い落とそうとされ、地の深みに繋いでおくように命じた。」
また「エチオピア語エノク書」では、「天の子たちは彼女らに魅せられ、おのおの嫁を選び、子を設けようではないか、と言った。彼らの中の筆頭のシェミハザが、わたしだけがこの悪事の尻拭いをするはめになるのではないか、と心配したので、一同は誓いを立てた。居合わせたのは200人だった。・・彼らは女たちに、医療・呪い・草の薬や、剣や小刀の造り方、金属とその製品、星の観察、月の運行を教えた。その後大いなる至高者は『アザゼルの手足を縛って暗闇に放り込め、シェミハザとその仲間は永遠の審判が終了するまで大地の下に繋いでおけ。』と命じた。」
この「へび」と、ルシファーと、シェミハザ・アザゼルの話しには、おおきな共通点がある。3つに話は分かれているがもともとはひとつの物語ではなかろうか。
共通点を挙げると、
(1)善なるもの(神や主)と悪の勢力(へびであり、ルシファーであり、シェミハザたち)との戦いであること。
(2)悪の勢力は人間、または人間の女と関わりを持ち、助けたり、教導したりする。へびは女に善悪を識別できる木の実を与え、シェミハザたちは人間に
様々な知恵を授ける。ルシファーに敵対するが、人間との関係が堕落の原因となったことは間違いない。
(3)最後は善なるものによって、天界から地に投げ落とされる。つまりへびは手足をもがれて、天の園から追放されて、腹ばいであるくことになり、
シェミハザたちは大地の下に繋がれ、ルシファーは天界から地上に追われた。
(4)この天界の大騒乱の原因は、いずれも善なるものが作り出したところにある。へびの場合は、神が園の中に人間を盲目状態にして使役していたのが
原因であり、人間から見てそちらのほうが罪が重い。
ルシファーの場合は、後から創造された人間であるアダムを、礼拝させようとした神とミカエルたちに非があるのではないか。神を礼拝するのならまだしも、人間への礼拝を強要する善なるものとは、なんなのだろうか。それに毅然と対峙したルシファーは見事である。ただ、一言余分な台詞があったため、神の怒りを被ったということだが、怒ること自体が、この神に至高者としての資格はないので、それをルシファーは見て取ったのではないか。
また、シェミハザたちは人間の女を妻としたのだが、それを見てみぬふりをしていたのが、神ではないのか。シェミハザたちへの罰は、生んだ子供たちが巨大な化け物になって、地上に暴虐が溢れたことの責任を取らせたためだが、結婚自体には言及していない。むしろ天使と人間の結婚がどうなるか、実験として、奨励はしないでも黙認していたのではないか。
こうした点をつぶさに見ると、単純に神と悪魔の戦い、あるいは悪魔の誕生、といった話しではないようだ。どうもこの時代には、あるいはこの世界では、相当数の神々が棲んでいて、その神々の中で人間を巡っての意見の相違があって、それらの主張が極点に達したため、巨大な亀裂が生じて2つの勢力に分離したのではなかろうか。一方の主張は、人間に改造を施し、それを保護しながら使役して僕とし、神々に忠実なものとすることにあり、もう一方の主張は、人間が善悪を自ら判断し、知恵を使って生活を切り開きながら、自立してゆけるようにすることにあるのではないか。
人間にとっては、前者が介入派だとすれば、後者は自立派であり、前者は奴隷対応であり、後者は自然対応であり、前者は人間のモルモット扱いであり、後者は人間らしい扱いではなかろうか。そうだとすれば、ここからは主なる神ヤハウェと悪魔、という対比ではなく、「支配干渉派」と「自立自然派」という区分でみるのが、実態に近いのではないか。ただ、このあと支配派と自立派がどういう勢力地図となり、いづこを拠点として対立しているのかは、今の段階ではつまびらかではない。何故なら、地に投げ落とされた、というのは支配派のプロパガンダである「聖書」の情報だからだ。
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3章.エデンの園で何の実験していたのか